ウォーナンブールの「Japan Street Story」
2009.6.5如水会館:山澤逸平先生、遠藤明・雅子ご夫妻、Bruce & 雅子ご夫妻をお迎えして
冨岡 敏明 昭45卒
オーストラリア遠征中の2008年11月10日、ウォーナンブール市内を走行中偶然にJapan Streetの標識を見つけました。
「何でこんな所にJapanと付いた標識があるのだろう?」と皆で疑問に思い、夕食に行ったレストランでお店の人に尋ねましたがその由来は分かりませんでした。
それ以来車中や会食時に皆で仮説を述べ合ったりしていましたが、さらに帰国後も調査を続けてたどり着いた事実をご報告します。
(A)三つの仮説
仮説(1)フレッチャージョーンズに因む?
ウォーナンブールで朝遠征隊の写真を撮った衣料品会社の創立者フレッチャージョーンズは日本のキリスト教社会運動家、賀川豊彦の影響を強く受けたそうです。
賀川は1935年ウォーナンブールに行っていますし、ジョーンズは1936年来日しています。
http://ch01617.kitaguni.tv/e524130.html
http://www.travelvictoria.com.au/warrnambool/photos/
http://www.mantra.com.au/victoria/great-ocean-road/warrnambool/maps/
仮説(2)日英同盟(1902年)に因む?
Japan Streetは1935−6年のフレッチャージョーンズ・賀川豊彦よりさらにさかのぼります。
次のURLをご覧ください。http://www.aif.adfa.edu.au:8080/index.html (これは1914年の第一次大戦にオーストラリアから出征した兵士のデータベースです。)
以下はその中の第8大隊に所属する兵士のDBですが、1915年1月に18歳で出征したCONLIN, David
Hamiltonという兵士の住所がJapan Street,
Warrnambool, Voctoriaとなっています。
http://www.aif.adfa.edu.au:8080/showUnit?unitCode=INF8REIN5
つまり1915年にはJapan Streetがあったことになります。
一方オーストラリアは1901年に移民制限法(白豪主義)を制定して日本からの移民を認めていません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%B1%AA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
1901年以前にWarrnamboolと日本との何らかのつながりがないかさがしてみましたが、日本からの移民はダーウィンなど北海岸の真珠採取労働者がほとんどで、南海岸には日本人の足跡はまだ見つかっていません。
http://discover.australia.or.jp/chapter04/001.html
http://www.tanken.com/moku2.html
http://www.australia.or.jp/gaiyou/japanese_resources/pdf/07_pearl.pdf#search
そうすると1901年から1915年の間の出来事ということになります。1902年に1次が締結された日英同盟(その後2次が1905年、3次が1911年)で日本とオーストラリアは同盟関係になりました。(実際日本は南太平洋、オーストラリアに艦隊を派遣しています。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
日英(豪)同盟を記念してJapan Streetと名づけたのでは?
仮説(3)兼松江商に因む?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%BC%E6%9D%BE
をみると1889年(明治22年)8月 - 兼松房治郎、兵庫県神戸市に羊毛の輸入を目的として豪州貿易兼松房治郎商店を創業、とあり1901年以前に豪州との接点が出てきました。(一橋大学の兼松講堂を寄贈してくれた会社です)
http://www.kanematsu.co.jp/CONTENTS/jp/environmental/social.html
しかしどうさがしてもJapan Streetにつながる情報がでてきません。結局三つの仮説は空振りだったようですが、回り道をしたおかげでいろいろな事実を知ることが出来ました。
こちらのリンク集の中にも兼松講堂の記事があります。
http://kanegold.com/index.html
(B)ついに由来を突き止める
そこでだめもとでWarrnamboolのCity Councilに問い合わせのメールを送ったところ翌日次の返事がきました。(ホント皆さん親切ですね)
Dear Mr. Toshiaki Tomioka,
Thank you for your query RE: Japan Street in Warrnambool Victoria,
Australia.
JAPAN STREET was named by William Pickering in 1846 after a black
glossy varnish in popular use at that time.
If you have any further queries please contact Planning Services
Administration on 55594800.
Marisha O'Flaherty
Planning Administration Trainee
Warrnambool City Council
William Pickeringですがこの人は政府の測量技師でウォーナンブールの測量をしています。http://en.wikipedia.org/wiki/Warrnambool,_Victoria
同市は1840年代に移住が始まり、1846年に測量があり、1847年に町が成立しています。
つまりピッカリング氏が、”黒く光る漆”がはやっていたので1846年に測量中の道にジャパンストリートと名づけたことになります。(確かにJapanには漆の意味がありますね)
結論としてジャパンストリートはウォーナンブールの町の成立と同時に名前がつけられ、意味は”日本通り”ではなく"漆通り”ということになります。
この件に関し、雅子パイパーさんが再度ウォーナンブールの歴史協会に問い合わせて
下さり、以下の詳細がわかりました。
To Masako Piper
The original streets in Warrnambool in the 250-acre grid were named by
the
Government Surveyor William Pickering.in 1846. They were all officially
approved at the time. Pickering chose very unusual names for the
streets and no one knows exactly why but it is thought that some of the names
were chosen because of the scientific books he was carrying with him at the
ime - so we have Liebig and Kepler
Streets and some people believe that he may have called into foreign ports such
as India in his travels - and so we have Ryot Street (Indian peasant), Banyan
Street (Indian tree), Timor Street etc.
Other names come from local conditions - Lava Street because of the
extinct volcanoes around, Koroit Street - the aboriginal name for Tower Hill
nearby, Kelp Street because of the seaweed etc. It has always been accepted that Japan Street comes from the
process of 'japanning' and the glossy lacquer popular at the time but I could
not point to any particular historical reference to prove this.
William Pickering came to the Warrnambool district to live some years
after the founding of the town and he was farming for a time but he got into
financial difficulties and disappeared from the area. Nothing much else is known about him.
Elizabeth O'Callaghan
Research Officer
Warrnambool and District Historical Society P.O. Box 731 Warrnambool
3280.
(C)さらに疑問は続く
1846年は1853年の黒船来航の7年前、明治維新の22年前になります。
1846年に大量の漆がウォーナンブールにあったのが不思議な気がしますが、薩長あたりが密貿易でもやっていたのかしらん、と半信半疑で調べてみたら加賀(輪島塗の本場です)の豪商、銭屋五兵衛という人物が浮かび上がりました。
何とウォーナンブールの沖のタスマニア島を領有していたというのです。
次をご覧ください。
http://www.tanken.com/zenigo.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E5%B1%8B%E4%BA%94%E5%85%B5%E8%A1%9B
北前船に漆を積んでタスマニアやウォーナンブールに行っていたことになれば、”黒く光る漆”のナゾも解けますね。
(D)ノンフィクション作家 遠藤雅子さん
上に記述のある"幻の石碑−鎖国下の日豪関係” の著者は遠藤雅子さんというノンフィクション作家です。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4377209655.html
「ネバー・トゥ・レイト」を信条に40歳を過ぎて物書きに挑戦した遠藤さんは、10年におよぶオーストラリア滞在の経験を生かし日豪関係など幅広い取材活動を続け、03年にオーストラリア政府から名誉勲章を授与されました。
http://www.australia.or.jp/seifu/pressreleases/index.html?pid=TK20/2003
http://www.australia.or.jp/english/seifu/pressreleases/2003/endo.html
また世界的な知的発達障害者のスポーツの祭典、スペシャルオリンピックス(SO)を日本に広めた『スペシャルオリンピックス』の著者でも知られ、05年に長野で開催されたSOでは実行委員会理事として広報活動などに尽力されました。
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0230-h/index.html
(E)遠藤明氏(昭34卒如水会員)
遠藤雅子さんの著作の中で夫の遠藤明氏と共著の"海外に通じるテーブルマナー”という本があります。
何とか遠藤雅子さんと連絡を取ろうとしていたのですが連絡先が分からないため、
遠藤明氏を調べました。何とマキシムドパリの社長などをつとめたS34の如水会員でした。
https://www.kawade.co.jp/np/author/01146
さらに調べてみると10年前の米欧亜回覧の会にも名前が見えます。
http://www.iwakura-mission.gr.jp/n_kaihou/n16.htm
早速、泉三郎氏(樫崎大兄)に電話で遠藤明氏のことをきいてみたら「よーく知ってるよ、同級生だもん。ついこの間も会った。そういえば彼の奥さんはオーストラリアの歴史を良く知っているのでジャパンストリートのことを聞こうと思ってたとこなんだ。」とのことでした。
ジャパンストリートのことを調べていったら何と泉三郎氏(樫崎大兄)に行き着いたというお話です。が、まだ話は終わりません。
(F) 銭屋五兵衛(1774-1852)とCaptain John
Piper(1773-1851)
石碑があったというタスマニアのLaunceston(ロンセストン)にあるキャンベル陶器会社 http://www.auspottery.com/Campbell.htm を調べておりました際、たまたまCaptain John
Piper(1773-1851) http://mywebsite.bigpond.com/tjbatey/piper.html
という人物を見つけました。銭屋五兵衛(1774-1852)と同時代人で、Prince of
Australiaと呼ばれたシドニーの大金持ちで大地主でした。Captain John
Piperは囚人の娘のMaryと結婚し、軍人、公務員、税関署長、ニューサウスウェールズ銀行の頭取と出世し、現在彼の名前をとってPoint Piper (http://mywebsite.bigpond.com/tjbatey/pointpiper.html) と呼ばれる超高級住宅地にお城のような大邸宅を建てて住んでいました。(自前のオーケストラを持ち、船、船員、使用人100人という途方も無い規模です。毎晩のようにパーティーを開き妻のMaryは社交界の女王と呼ばれていました。)
しかし彼は頭取としてはあまりに人が良く、乞われるままに商人に融資したため融資金が回収不能に陥り、銀行を辞めて自分の資産で弁済するため1827年にほとんどの土地を手放しています。(タスマニアにも土地を持っていました。彼の資産を現在価値に換算すると100億豪ドル(70円換算で7000億円)以上といわれています。)
Captain John Piperのタスマニアの土地を銭屋五兵衛が購入したのではという仮説をたてて現在も調査続行中です。
http://www.utas.edu.au/library/companion_to_tasmanian_history/Maps.htm
(上のURLは昔からの地図です。最初の1792年のものは日本もでています。タスマニアがまだ陸続きと考えられていた頃の地図です。1800年はホバートくらいしか出ていません。大事なのは1826年の地図でこれを見るとホバート、ロンセストンを結ぶ南北の線が開発されたのがわかります。銭屋五兵衛が所有していたとされる土地がタスマニアのこの南北線の東3分の1だとするとCaptain
John Piperがもっていた土地と重なることになります。(Captain がタスマニアにも土地を所有していたことは文献にあるのですが、その場所が特定できていません)
ところでごく最近、豪州遠征で一緒に走り、本日ご出席いただいているBruce Piper氏が、このCaptain John
Piperの7代目の子孫だということがわかりましたのでご報告いたします。
Fact is stranger than fiction! (事実は小説より奇なり!)