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「近況報告」 No.2
於いて、JMC総会 2008年5月16日
 
No.11 昭45 早乙女 立雄  2008.6.1

 ありふれた老サラリーマンの近況報告です。

【家族状況】松戸市在住。妻・二男・愛犬の三人プラスワン。毎朝出勤の時でも夜遅く帰宅した時でも、見送りしてくれたり又は眠い顔して玄関に出迎えるのは、愛犬のみ。

長男一家がインドニューデリーに在住(ホンダ勤務)。小二と幼稚園の孫達が早くも夏休みで母親と三人で一時帰国。いつもながら孫達に久しぶりに逢えるのは楽しい。だから我が家に来てくれるのは嬉しい。しかし早目に帰ってくれるともっと嬉しい。〔ミニ台風の通過みたい〕

【仕事】旧電電公社に就職。転々と全国を転勤しながら、約30年近く遊びと仕事に随分頑張ってきて、会社のためにとなり、となり、そしてとなる。今では子会社のNTTベトナム鰍ノ勤務。お陰でハノイへ年間何回か出張もした。越南国の対日感情は非常に良し。治安もベリー・グー。グ〜グ〜グ〜〜

【健康・趣味】渡る世間は鬼ばかり。私は毎晩酒ばかり。健康だ健康だと言いながら、酒と薬(降圧剤)を交互に飲んでいる毎日。

この歳になって大した趣味もない自分にとって、気晴らしになるのはゴルフとカラオケぐらい。ゴルフの道具等は進歩しても腕のほうは一向に上達せず。カートに乗らず黙々歩く。

平常は万歩計をつけて一日一万歩以上は歩くようにしている。家に帰っても満たない時は、犬を連れ出し散歩。これも健康管理のため。『先ずは健康、何よりも健康第一。健康のためなら死んでもいい。』

【オーストラリア遠征】いよいよ今秋に永年の夢が実現するのかと思うと、胸がワクワクするのと同時に、少しばかり不安も無い訳ではない。順調に行くだろうか、体力的に他の隊員に迷惑を掛けやしまいかと。今のところ時間的な面でなかなか準備に参加できていないが、7月頃からは本格的に取組み、体力作りにも本腰を入れたい。是非ともこのプロジェクトを成功させるために。 “弥榮!”

 

 

No.10 昭45 藤井 正夫 2008.5.28

 私は、大学卒業後、商社(三菱商事)に勤務し、長年、造船・海運分野の仕事に従事してきましたが、つい最近まで自動車業界とは全く縁がありませんでした。ところが、昨年4月に三菱オートリース(株)と言う会社の監査役に就任、卒業以来、初めて自動車関係の仕事にたずさわることになりました。自動車のこととなると、社内で日々耳にする会話も何となく興味が持てるし、自動車整備工場、中古車解体工場、中古車オークション会場等を見学したり、監査役と言うお役目を忘れ、「そんなことやってたら駄目だよ、キミ、〇〇しなくちゃ!」といった具合についつい出すぎた口を聞いてしまうような今日この頃でありまして、結構、職場環境を楽しんでいるのかも知れません。

 さて、我々45年卒は学生時代に経験した、オーストラリア遠征の挫折という「心の傷」と言うか、大澤キャプテンの言う「喉のつかえ」と言うか、未だに何かしこりが残っており、如水会館で集まるうちに、飲んだ勢いもあってと言うわけではありませんが、還暦を過ぎた今、元気なうちに再挑戦しようやということになった次第であります。今回の遠征はオーストラリアのDarwinからAdelaideまで南下し、Sydneyまで全行程6千キロ近くを短期間に走破するという還暦をとっくに過ぎたオジン連中にはかなりチャレンジングなプロジェクトとであり、途中Outbackと呼ばれているオーストラリアの辺境地帯では、砂漠の真っ只中の道路を突っ走ることになります。砂漠走行といえば、私が若いときに駐在していた米国西海岸のモハーベ砂漠を家族とともに突っ走った時、「Next 30 miles No Gas」の看板でガス欠におびえた記憶や、1995年から5年半駐在した北アフリカのエジプトでの砂漠走行がまるで昨日のことのように思い出されます。もっとも、エジプトでは会社の方針として、邦人社員が自ら運転することを禁じていた手前、自分では運転しませんでしたが、駐在期間中ずっと愛用していた現地人運転手の操縦する黒塗りBENZ S320と三菱パジェロ ロングボディーを駆ってモーゼの十戒で知られているシナイ山やダイビングの盛んな観光地シャルム・エル・シェイクに行く途中のシナイ半島の砂漠走行の思い出、また、第二次大戦末期、デザート・フォックスの異名をとったナチスドイツ、ロンメル将軍の戦車隊が敗退した北アフリカ(地中海岸)の古戦場エル・アラメーンに行った時のサハラ砂漠(ほぼ西端)の走行は、これまた一興でありました。また、カイロから車で西南に約4時間、砂漠のど真ん中のバハレア・オアシスに行ったとき、現地でSAFARI ツアーに参加しましたが、この時に乗った車齢20年を超える(オープン・タイプ??)トヨタのランクル4WDでの本格的砂漠走行では、手ぬぐいでホッカムリしても頭髪、衣服に入り込んでくる砂を防げず、まいった記憶があります。それにしても20年もののランクルが砂漠で未だに大活躍していたのには感心させられました。また、バハレア・オアシスで思い出すのは、砂漠の真ん中にある小さなホテルに到着したとき、我々を迎えてくれた20歳代のホテルのオーナーの息子がいきなり完璧な日本語で話しかけてきたのにはびっくりしました。何でも彼の話では、 「ドイツ人の母が長年日本で働いていた時、僕は(千葉県の)船橋〇〇中学校を卒業しました・・・・ 」と言うことのようでした。このバハレア・オアシス近辺には、真っ白な砂の「白砂漠」と鉄分を含んだ真っ黒な固形物があたり一面に散らばった「黒砂漠」という対照的な砂漠が存在し、地球の創成期を想像させるような異様な光景が見られ、これまた一興でありました。この旅の途中、家内と見た満天の星、特に肉眼ではっきりと見えた天の川の美しさは、感動せずにはいられませんでした。

皆さんも、もし、エジプト観光に行き、カイロ近辺で時間的余裕を持って滞在する機会があるようなら、このオアシスの訪問をお薦めします。何年か前に、この近辺で大量の人間のミイラが発見されたとのニュースもありましたから、今は、観光のオプショナル・ツアーに入っているかもしれませんね。エジプトのことを話し出すといくら時間があっても終わりません。ここらで、筆を置かして貰います。



「ワイフとシナイ半島の砂漠で(1997年)」

No.09 昭57 柳井教男

 小生元々トーメンに入社しましたが、2006年の合併により現在は豊田通商に勤務しています。 自動車とは縁が切れず、トーメン時代はマツダ、現在はトヨタを扱っています。(乗ってる車はスバルですが)

 トーメン時代には足掛け10年タイに駐在していました。この間、マツダのトランスミッション工場の建設、販売代理店及びディーラーの支援、組立工場の運営、その後タイのマツダ事業からの撤退と色々な経験をさせて頂きました。
当時は独身でしたので、休日はこれといって他にする事が無いものですから、ひたすらゴルフに明け暮れた駐在生活でしたが、これが婚期が遅れた言い訳にしています
4年前に結婚し、現在2歳の娘がいますが、この4月から名古屋に転勤となりましたので、家内と娘を川崎の自宅に残し、月〜木が名古屋泊、金〜日が川崎泊という生活を送っています。
ですので、基本的には金曜日は東京方面に戻るので、今後も出来るだけJMCのOB会には出席したいと思います。(ちょっと会社を早めに逃げ出す必要がありますが、石坂大先輩に会うという口実なら当社の場合誰も文句を言いません。石坂先輩スミマセン・・・)
現在の業務は東南アジアでのトヨタのディーラー展開で、第二の故郷タイを中心に、ベトナム・マレーシア・インド・フィリピン等を駆けずり回っています。

 先般のOB会の際に家内のことをちょっと話しましたので、ちょっと書かせていただきます。
家内はゴルフのインストラクター(所謂レッスンプロ)ですが、実は本職は看護師です。 ゴルフは学生時代の趣味が高じて大学病院を辞めてから一念発起して資格を取った様です。 インストラクターはダンロップスポーツの苦楽園の店でしていて、当時阪神タイガースの選手が教わりに来ていたそうです。
現在は看護師もゴルフインストラクターも休業中ですが、夫婦で同じゴルフコースの会員になっているので、よく一緒にコースを回ります。
名誉の為に申し上げますが、負けないですよ。一応・・・
因みに会員権は結納代わりでした。

という訳で、我が家では娘がまだ小さいので、小生がサラリーマンを引退後は、娘が大学を出るまでは家内が働く約束になっています。
その時に備えて料理の練習をしておかなくては・・・と考えている今日この頃です。
ゴルフに限らずスポーツのイベントがありましたら、是非一声かけて頂きたくお願いいたします。
No.08  昭33.34 泉 三郎 (成宮・樫崎)2008.5.20

<<部・草創のころ>> 

 昭和32年だったか、部をつくったのは多屋貞男さんとサトケンこと佐藤健一郎さんだった。私は確かその呼びかけに応じて入部したから三人目だったのかも知れない。車がまだ珍しい時代で、貧乏学生だった私など車に乗れることだけで嬉しかった。

 当時の部車は「クロちゃん」という中古のダットサン一台だけだった。もっともそれ以外にオモチャのような不思議な車が一台あった。スリフトという名前で、エンジンとシャーシの上に粗末な箱をのっけたような車だった。機嫌がいいと走ることもあるが、床がなくて板を渡して乗るというような結構な車だった。何故、あの車があそこにあったのか、その素性も思い出せない。その他、部車ではないが、大学のガレージに戦時型のトラックというのがあった。これには何回か乗ったが、クランクの手動でエンジンをかけるのにコツがいり、下手すると怪我をする物騒な車だった。でも、運転席はずいぶん高い位置にあり、そこにのぼると馬上から見下ろすような感覚があっていい気分だった。

 そのクロちゃんを駆ってサトケン(昨年、故人になってしまった)とよく新宿界隈に出かけた。サトケンのお宅が世田谷にあったせいもあるが、都会っ子の彼はなかなかのプレイボーイで地理にも詳しかった。「太陽の季節」が一世を風靡した頃でもあり、早熟で社交的なサトケンはよくナンパをした。田舎者で晩生の私はもっぱらおとなしくお供をして、「なるほどこういう世界もあるのか」と目を見張る思いだった。

 体育の藤沢伝先生が部長で、目白の鬼子母神にあったお宅によくお邪魔した。やさしく美しい奥さんがいらして、よくカレーライスなどをご馳走になった。その藤沢先生の姻戚関係に先輩の藤井晴久さんがいて、そのお宅が赤坂で「フジイ・ガレージ」という自動車整備工場をやっておられ、ずいぶんお世話になった。そこは有名なコパカバーナというナイトクラブの直ぐ前で、灯ともし頃になるとえらく華やかな雰囲気になった。

 国立では、今の中和寮のある敷地が広々した空き地で、そこの一画にみんなでスコップをもって練習場をつくった。直線コース、クランクやS字カーブ、上り坂や下り坂、ちょっとした教習所の小型のようなものだった。そして新入部員に運転を教えた。ここでちょっと練習して、いきなり鮫洲の試験場にいき免許証をとった学生が少なからずいると思う。まことに牧歌的な時代だった。

 そんなことをしているうちに昭和33年になって天から降って湧いたようにスクーターでの海外遠征の話がきた。当時既に売れっ子だった石原慎太郎氏から電話があって、キャップテンだった私とマネージャーだった村上明が早速、クロちゃんで葉山の石原宅へ出かけた。我々はその話に跳びのり、夢を語りながら夜道を帰ってきたことを想い出す。でも、多屋、サトケンの両氏は卒業、村上は健康上に問題があって残念ながら遠征は断念せざるを得なかった。私はうまい具合に一年ドッペッていたので参加することができ、小林清二、楠木孝雄、上保慶一の三君と遠征隊を編成することになる。それからあわただしく諸準備に奔走し、その年の11月に横浜から船で南米に向けて出発することになる。そして留守部隊が、村上を中心に、江頭(加藤)健介、遠藤誠らで部を創り上げていくことになる。

 あれから半世紀、思えば長い道のりでもあり、つい昨日のことのようにも思える。それにしても藤沢先生、サトケン、村上、上保の姿がもうみえないのは、いかにも寂しい。しかし、自動車部のおかげで石坂や石垣をはじめ多くのメンバーと懇意になることができ、わが人生が豊かに彩りをましたことはまことに幸いだった。

 また、本年、秋には45年卒業組が往年の夢を再現しようと「オーストラリア遠征」を企画してくれたので、私もメルボルン〜シドニーの最終コースだけでも参加したいと思っている。一回り若い世代をはじめ、この旅を通じてまたよき仲間がふえるなと期待している。


<< 
近況報告>>

5月10日 
 小唄の発表会あり、如水会の先輩(八王子支部)に誘われて始めたもの。
 なかないろっぽくて結構、ご所望があれば披露しますよ。

5月18日 
 新著「誇り高き日本人 国の命運を背負った岩倉使節団の物語」の見本が
PHPから送られてきた。30年来、追いかけてきた「岩倉使節団」の集大成的な著作であり、今、達成感に酔っているところ。月末には本屋に並ぶ予定、これは僭越ながら「日本人、必読の書?」と自負しているのです。一人でも多くの人に読んでほしいと思っています。
どうぞよろしく。


(編集長追記:Linkに「NPO法人米欧亜回覧の会」 のホームページを載せてあります。)

No.07 昭36卒 近藤 富夫 2008.5.20
JMCホームページ立ち上げに思う》 

                         

去る5月16日のJMC例会は2回欠席してしまい、久しぶりで出席した。 

大澤編集長以下関係諸兄の大変なご努力でJMCのホームページが出来上がり、大変遅ればせながらそれを拝見し、そのご努力のあとも見え感謝に耐えない。

考えてみると、“一橋大学自動車部“ が創立されて昨年は50年(半世紀)の節目の年。

本来なら何か記念行事をやるべきだったのかもしれない。一方、昨年は部創設の功労者の村上明氏(昭和34卒、前JMC会長)、関西在住でお会いする機会も無かった佐藤(けん)一郎氏(昭和33卒)の相次ぐご逝去もあり、50年の因縁と時代の変遷を強く感じた年でもあった。

村上先輩のご逝去がきっかけとなって、彼が長年社長だった「帝国通信工業(株)」に保管されていた部の会報誌や表彰状など膨大な資料がホームページで蘇生したのは誠に喜ばしく、亡くなられたお二人のご供養となると信じる。

こうしてご苦労されて出来上がったホームページを今後維持していくのが第二ステップであり、それにはOB諸氏へのPRが欠かせない。そして単なる回顧録で終わらせず、これを媒体として、OB諸氏間の交流と発展があることを願うや切であり、それはOB全員の責務でもある。

 部の創設早々に実現した「南米遠征」は当時の社会環境やモータリゼーション揺籃期を考えると大快挙であったし、まさに部の華々しいスタートだった。それから半世紀、今回は「豪州遠征」をやろうという“団塊の世代”諸兄の意気込みはまさに半世紀後の青春へのリベンジとも云うべきことであり、半世紀経た今も自動車部のチャレンジ精神が脈々と生きていると意を強くするしだいである。会社生活ではとても得られなかったものを多く得られることを期待するや大である。
                        = 以 上=

No.06 昭45年卒 冨岡敏明 2008519

私は、日本経済新聞社の"日経就職ガイド“の企画、プロモーション業務、またボストンキャリアフォーラムをはじめとする各種就職、転職イベントを主催しております()ディスコの人材紹介部門でシニアコンサルタントを11年務めております。

421日〜51日ロシアに出張しましたので簡単にご報告いたします。

1999年にモスクワ国立大学、サンクトペテルブルグ国立大学を訪問したことがあります。これは98年にアジア発の通貨危機でロシア経済がガタガタになり、モスクワ大学のコンピュータ学部の教授がその前年ディスコがベルリンで開催したキャリアフォーラムを訪れ、卒業生がロシア国内で就職先が無いため何とか助けて欲しいとの依頼を受けて、卒業生のうち15名をインタビュしたものをビデオに撮り、アメリカ、ヨーロッパ、日本の各企業に紹介したものです。(このときは日本もアメリカも景気が悪く、ヨーロッパの企業が3名だけ採用しました。)

現在ロシアの経済状況は9年前とは比較にならないほど活況を呈しています。(オイル、天然ガスのおかげです。)モスクワ国立大学(ロシアNo.1の大学です)、サンクトペテル大学(ロシアNo.2、プーチン首相の出身大学です)の卒業生であれば国内で引く手あまたの状況だそうですが、海外で仕事をしたいという学生がいるため前回と同様にインタビュをビデオに撮りました。(今回は28名、コンピュータ学部14名、日本語学部14名、彼らは全員英語を話し、日本語学部の学生はそれに加えて中上級の日本語を話します)

ほとんどの学生の卒業は来年6月ゆえ、これから日米欧の企業に紹介していく予定です。

経済の活況を受け自信を回復したのでしょうか、59日にソ連崩壊後初めての軍事パレードが18年ぶりに復活しました。私が見たのはその予行演習でしたが赤の広場に通ずる道路をICBMやミサイルを積んだトラックが多数走っていました。プーチン首相は国防にもっと資金を投入するとテレビで語っていました。

日ロ貿易も急増しています。日本からの輸出の70%は自動車です。http://www3.jetro.go.jp/jetro-file/archive.do?countryname=%A5%ED%A5%B7%A5%A2

トヨタもサンクトペテルブルグ近郊で昨年12月にカムリの生産を開始しました。

外から工場を見ましたが、きれいで立派な工場でした。http://www.afpbb.com/article/economy/2328730/2471437

2010年には日産、スズキもサンクトに工場を立ち上げます。http://www.rotobo.or.jp/activities/autopartssemipeter.pdf

日本企業のロシア進出も盛んです。現在モスクワには170社、サンクトには40社の日本企業が事務所をおいています。(モスクワにすし屋が400店舗もあるそうです。麺屋というラーメン屋に入りましたが、日本のラーメンとは似て非なるものでした。)

 

日ロの関係は今後ますます重要になると思われます。ディスコも人材の面から少しでもお手伝いができるようがんばってまいります。

以上

No05. 昭43年卒 「伊藤 浩義」 2008年5月17日

 私は同期の後藤君のように最近始めた「高尚な趣味(フルート)」は何も無く、62歳を過ぎた現在も毎日会社に出社している「サラリーマン」として日々過ごしています。
  今日は「最近、毎日している事」と40年ほど前の「卒論(提出時の先生の対応)」の二つについて話します。 先ず「毎日の日課」ですが、それは「4歳の茶色(「レッド」)の仔犬(トイプードルという犬種)」との朝晩二回の散歩です。   平日は出勤前・帰宅後なので各15分位ですが、土・日は朝夕それぞれ1時間位、「ラン」(トイプードルの名前)と話しをしながら自宅近辺を散歩します。  おかげで(家族の話しでは)近所では、「犬オジサン」と言われて有名だそうです。
  もう一つの「卒論」の方ですが、私は国際経済の「小島 清」教授のゼミでした。年末にやっと書き上げたものの、最低枚数(確か200枚)に15〜20枚足らず、その分を内容の無い長めの「序文」と「あとがき」を無理やり作り、何とか製本にこぎつけました。 先生との「卒論面接」では皆が「分厚いのを
  一冊」か「薄いのを二〜三冊(上・(中)・下巻)」持参し、面接では先生に卒論内容につき相当突っ込まれた・・・との事。 ところが、私との面接時は「どうせ伊藤はどこかの本を二〜三冊読んでそれを抜き書きしただけだろう?!」と言って、私の超薄く製本された卒論をペラペラとめくっただけで、面接は終わり。 時間にしてわずか5分くらい・・・。(他の同級生は30分〜1時間) しかし、無事卒業は出来ました。
 私の二つの話は以上です。

No 04 34・35卒  楠木 孝雄  2008年5月17日

故村上名誉会長から、1,2年やってくれと頼まれて引き受けた帝国通信工業の監査役でしたが、結局5年間勤めて、今年の6月任期満了で退任します。

シニアボランティアで勤務したタイの役所からワリンさんが、タイ大使館の公使として来日。タイ政府派遣の450名の留学生の世話を中心に、総数2300人になるタイ人留学生を総括する立場です。

タイで世話になったお返しに、ワリン公使の相談相手となって留学生の抱える問題解決に協力していくつもりです。
タイ人留学生を支援する顧問団つくりがその第一歩。日本タイ経済協力協会会長の前田勝之助東レ名誉会長に続き、日本タイ協会副会長の石坂当会会長にも顧問就任の承諾をいただき、強力な2枚看板がそろったところです。