No.08 昭33.34 泉 三郎 (成宮・樫崎)2008.5.20
<<部・草創のころ>>
昭和32年だったか、部をつくったのは多屋貞男さんとサトケンこと佐藤健一郎さんだった。私は確かその呼びかけに応じて入部したから三人目だったのかも知れない。車がまだ珍しい時代で、貧乏学生だった私など車に乗れることだけで嬉しかった。
当時の部車は「クロちゃん」という中古のダットサン一台だけだった。もっともそれ以外にオモチャのような不思議な車が一台あった。スリフトという名前で、エンジンとシャーシの上に粗末な箱をのっけたような車だった。機嫌がいいと走ることもあるが、床がなくて板を渡して乗るというような結構な車だった。何故、あの車があそこにあったのか、その素性も思い出せない。その他、部車ではないが、大学のガレージに戦時型のトラックというのがあった。これには何回か乗ったが、クランクの手動でエンジンをかけるのにコツがいり、下手すると怪我をする物騒な車だった。でも、運転席はずいぶん高い位置にあり、そこにのぼると馬上から見下ろすような感覚があっていい気分だった。
そのクロちゃんを駆ってサトケン(昨年、故人になってしまった)とよく新宿界隈に出かけた。サトケンのお宅が世田谷にあったせいもあるが、都会っ子の彼はなかなかのプレイボーイで地理にも詳しかった。「太陽の季節」が一世を風靡した頃でもあり、早熟で社交的なサトケンはよくナンパをした。田舎者で晩生の私はもっぱらおとなしくお供をして、「なるほどこういう世界もあるのか」と目を見張る思いだった。
体育の藤沢伝先生が部長で、目白の鬼子母神にあったお宅によくお邪魔した。やさしく美しい奥さんがいらして、よくカレーライスなどをご馳走になった。その藤沢先生の姻戚関係に先輩の藤井晴久さんがいて、そのお宅が赤坂で「フジイ・ガレージ」という自動車整備工場をやっておられ、ずいぶんお世話になった。そこは有名なコパカバーナというナイトクラブの直ぐ前で、灯ともし頃になるとえらく華やかな雰囲気になった。
国立では、今の中和寮のある敷地が広々した空き地で、そこの一画にみんなでスコップをもって練習場をつくった。直線コース、クランクやS字カーブ、上り坂や下り坂、ちょっとした教習所の小型のようなものだった。そして新入部員に運転を教えた。ここでちょっと練習して、いきなり鮫洲の試験場にいき免許証をとった学生が少なからずいると思う。まことに牧歌的な時代だった。
そんなことをしているうちに昭和33年になって天から降って湧いたようにスクーターでの海外遠征の話がきた。当時既に売れっ子だった石原慎太郎氏から電話があって、キャップテンだった私とマネージャーだった村上明が早速、クロちゃんで葉山の石原宅へ出かけた。我々はその話に跳びのり、夢を語りながら夜道を帰ってきたことを想い出す。でも、多屋、サトケンの両氏は卒業、村上は健康上に問題があって残念ながら遠征は断念せざるを得なかった。私はうまい具合に一年ドッペッていたので参加することができ、小林清二、楠木孝雄、上保慶一の三君と遠征隊を編成することになる。それからあわただしく諸準備に奔走し、その年の11月に横浜から船で南米に向けて出発することになる。そして留守部隊が、村上を中心に、江頭(加藤)健介、遠藤誠らで部を創り上げていくことになる。
あれから半世紀、思えば長い道のりでもあり、つい昨日のことのようにも思える。それにしても藤沢先生、サトケン、村上、上保の姿がもうみえないのは、いかにも寂しい。しかし、自動車部のおかげで石坂や石垣をはじめ多くのメンバーと懇意になることができ、わが人生が豊かに彩りをましたことはまことに幸いだった。
また、本年、秋には45年卒業組が往年の夢を再現しようと「オーストラリア遠征」を企画してくれたので、私もメルボルン〜シドニーの最終コースだけでも参加したいと思っている。一回り若い世代をはじめ、この旅を通じてまたよき仲間がふえるなと期待している。
<< 近況報告>>
5月10日
小唄の発表会あり、如水会の先輩(八王子支部)に誘われて始めたもの。
なかないろっぽくて結構、ご所望があれば披露しますよ。
5月18日
新著「誇り高き日本人 国の命運を背負った岩倉使節団の物語」の見本がPHPから送られてきた。30年来、追いかけてきた「岩倉使節団」の集大成的な著作であり、今、達成感に酔っているところ。月末には本屋に並ぶ予定、これは僭越ながら「日本人、必読の書?」と自負しているのです。一人でも多くの人に読んでほしいと思っています。
どうぞよろしく。
(編集長追記:Linkに「NPO法人米欧亜回覧の会」 のホームページを載せてあります。)
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