バルト3国演奏旅行 こぼれ話

                                       藤原  尚

MGCの海外演奏旅行が2004年に開始されて以来、今回が数えて第7回目でした。

私も2007年にMGCへ入団以来、毎回の演奏旅行に参加して来ましたが、今回が5回目となり

ました。

団内には過去の経験をもとに色々なノウハウが蓄積されていますが、演奏旅行を企画するに

当っては、実施に先立つこと凡そ2年くらいの準備期間が必要となって来ます。

具体化のためには、参加者数が確保出来るのか、訪問先が演奏会実施に相応しい音楽環境に

あるのか等、幾つかの検討要素がありますが、鍵となるのは実施に対する参加団員全員の強い

意欲と、現地側で受け入れ・お世話をして頂く方の力量が、大事なポイントでした。

今回のバルト遠征の総括として、その検討開始から実施、全員が日本へ帰着するに到るまで、

反省を含めて幾つかの出来事を振り返りながらまとめてみます。

 

1、   粘り強く取り組んだ! 『海外演奏旅行企画』 の具体化

   2015年のイタリア遠征を終えて年も明け、「もし2017年の実施を前提にすると、そろそろ

検討を始めないと間に合わないね」と、当時の小室・丸山両副団長と共に前回イタリア遠征で

世話になったJOINTCON/CTC社(企画・旅行会社)を再訪し、打合せ開始したのは2016

3月に入ってのことでした。

5月になり訪問先候補を4地域ほど上げて団員の希望聴取をしましたが、生憎その前後に

欧州での同時多発テロが頻発、ISや難民の問題もあり、世界的にも海外旅行に対する警戒心

が高まる時期に重なってしまいました。

訪問先の選択はともかくとして、参加者の見込数も30名に満たず、暫くは世界情勢の模様眺め

とせざるを得ぬ状況となり、2017年夏遠征実施は一旦諦めて先送りとしました。

   多少状況が落ち着いて来た2016年の年末になり、企画担当を当時の橋本副団長にお願い

して、再度検討を開始しました。

以降の検討経緯については、橋本さんの寄稿文に詳細を譲ります。

バルト諸国への演奏旅行を行えるメドがようやく立って来ましたが、これはリトアニア在の

コーディネーター「救いの聖母、岸田麻里亜(マリア)様」 の存在によるところが大でした。

岸田さんからはエストニア・タリン在住の西角さんの紹介も受け、西角さんが勤務している旅行

企画会社ツムラーレ社の東京事務所を訪問し、全体の旅行日程・演奏会企画の手配に入れた

のは201712月になってから、出発予定時期まで残すところ8カ月余に迫っていました。

 

2、   現地情報の収集に最大注力

私自身もバルト3国についての土地勘は無く、音楽レベルの高さについては聞いていても、

リトアニアに関しては「杉原千畝」の第二次世界大戦開始時期の英断と奮闘、エストニアに関し

ては元力士の把瑠都の出身国、IT先進国、N響指揮者パーボ・ヤルビ、等かなり限られた知識

しか無かったですし、これまでに訪問経験の有る団員もおられませんでした。

欧州の他諸国に比べて書籍やNETでの情報も少ないため、橋本さん・岸田さんのメールで

のやりとりと、ツムラーレ社との打合せを通じて、手探りで追加情報の収集に努めました。

   2018年初、丁度一時帰国中の岸田さんとの面談機会が得られて、小室・橋本両副団長

に会って頂き(私は風邪でダウンしていて会えませんでしたが)、「岸田さんなら信頼出来る」

との強い感触が得られ、リトアニアの状況も見えて来ました。

以降リトアニア国内に関しては、旅行社経由では無く 「演奏会企画手配・観光等の手配」も

含めて彼女にお世話をお任せすることとして、沢山の情報を頂きました。

   その他にも手がかりを求めていた所、友達の友達(私の高校友人の奥様の友人)繋がりで

「自分の友人が日本エストニア友好協会事務局長で、熱心に活動をしている」との話を聞きつけ

て面談機会を頂き、その後はメール等によりエストニアに関する新たな情報も入手出来る様に

なりました。

その過程で新たな事実も分りました。私が約30年前の欧州在勤中に仕事でお付き合いした

某銀行の方が同友好協会の理事長、又私の会社の先輩が同協会の理事を務めているなど、

世の中は狭いものでした。

「友達の友達は、皆友達。友達の輪!」でした。(かなり昔にTVで聞いたフレーズか?)

   ①、②を通じて、3国共に世界でも非常に高い音楽レベル(特に合唱大国)に有る事、今年

『各国共に独立後100周年』に当たること、過去に近隣諸大国からの長い被支配の歴史が

あり乍らも民族の自尊心と誇りを保って来た国民性、気候や風土、等について生の現地情報も

得られて、出発前に案内資料を通じて皆様にお伝えすることが出来ました。

 

3、   演奏旅行の成果

   予定していた3回の演奏会の演奏内容については、亀井さんから既に報告のあった通り

ですが、各回ともに亀井指揮者の堂々とした指揮振りと奮闘、参加者全員の一致団結の結果と

して、各地でスタンディング・オベーションを得る等、まずまずの成果を得られたと感じます。

幸い今回も中野先生が素晴らしいピアノ演奏で我々をリードして頂いたお蔭で、従来に比べて

かなり少人数ながら全員が気持ち良く歌えたこと、猛暑の日本から現地への気候急変で風邪

をひいたり体調を崩される方が何人か出ましたが、最後まで一人も欠けずに全員が揃って出演

することが出来て、本当に良かったです。

『合唱大国』と言われるバルトの国々、共演団体の演奏も素晴らしかったですが、演奏会で

聴衆の反応を通じて、バルト諸国の人達の合唱音楽に対する親しみ度合とレベルの高さを実感

できたことは、我々にとって幸せなことでした。

   『バルト3国と一括し総称することは控えるべきか?』と予め申し上げておりましたが、実際

に訪れてみて 民族・言語も違い、夫々に独自の文化を大事にしていることが体感できました。

人口も少なく国土の狭い国々ながらも全体に自然豊かで緑が溢れ、落ち着いた中世の雰囲気を

残した地域への訪問でしたが、国や都市ごとにその街並みや風景の違いも味わえました。

ラトヴィアの老年ガイドさんからは、独立回復までのソ連邦併合時代に対してユーモアを交え

ながらも辛辣なコメントが続きましたが、50年間近い厳しい暮しの時代を経て、ようやく現在の

独立を回復した喜びからの言葉だったのでしょうか。

    旅行中には、各国民の控えめで純朴な性格に触れつつ、日本人に対する好意と温かい

もてなし振りを肌で感じて、大いに感謝した次第です。

各地において演奏会後の共演団体との懇親会では、団員の皆さん方夫々積極的に先方の

方達との対話を通じて、草の根交流の実績を上げて頂きました。

又、岩谷さんの外務省時代のつながりで、タリンでは一橋出身の女性で在エストニアの柳沢

日本大使に、ヴィリニュスでは1週間前に離任された後輩の大使後任で着任早々であった

在リトアニア山崎大使一家に、懇親会にも参加頂いて、雰囲気も一層大きく盛り上がりました。

日本帰国以降も、参加されたご家族を含めて夫々に現地の方との交信を頂いている状況を伺う

につけて、今回遠征の目的は充分に果たせたのかなと、皆様のご尽力に感謝しています。

 

4、   予期せぬハプニングの続出

さて、旅行にはハプニングはつきもので毎回色々な武勇伝が残されておりますが、何れも

後になってみれば笑い話? で済ませることが多かった様に思います。

ところが今回は様相が異なり、笑い話では済ませられない深刻な事態が次々と起こりました。

    今夏の異常気象の連続。全国的に猛暑が続き最高気温40℃超の日も多く、熱帯夜の連続

にて、日本中で老若を問わず熱中症で倒れる人が続出し、遠征を楽しみにしておられたMGC

の参加予定者も何名かが体調を崩されて残念ながら不参加となり、直前になっての急な参加

人数の減少にはかなり焦りました。

後から聞けばバルト3国もこの夏は異例の暑さだったとか。事前の気象情報で「9月後半、現地

訪問時の例年気温は、例年の日本の晩秋から初冬、寒さに充分ご注意を!」と、出発前に私は

叫び続けておりましたが、現地に行ってみると 果たして喜ぶべきか悲しむべきか・・・・? 

『何でこんなに暑いんだ!沢山持ってきた長袖下着シャツの袖を切りたいぐらいや!』 と

某元団長からお叱りをくらう程に現地は好天と高温の連続。皆様方も写真でご覧の通り、北欧

特有の どこまでも高く 目に染みる濃い青空 が毎日続いてくれたのです。

   毎週の様に日本本土を直撃で襲う台風が発生したのも想定外でした。臨時練習を設定

していた週末に台風の来襲で急遽練習中止と予定変更せざるを得ないこともありました。

とりわけ出発直前の9月4日に来襲・近畿地方に上陸した強い台風21号は、高潮と強風の為

に船舶が連絡橋に衝突して関西空港が閉鎖となる等、大きな被害を与えました。

関西から出発してヘルシンキで合流予定であった冨田夫妻の予定フライトは暫く見通しが

立たず、遠征への参加も危ぶまれました。結果的には冨田夫妻は名古屋にて前泊されて中部

国際空港からヘルシンキへの別便を手配され、無事に現地で落ち合うことが出来ました。

さてさて①②はその後旅行中に次々と起こった出来事の前兆だったのでしょうか?

   予期せぬ旅行中のハプニングは、先ず9/13ヘルシンキ到着の初日から発生しました。

9/13、ヘルシンキ空港にて、スーツケース1個の鍵が損傷して到着。

9/14朝、到着したヴィリニュス空港で待ち受けたスーツケースは参加者の過半数22

も未着で行方不明に。(当日中に届かない場合には、翌日に控える演奏会の衣装をどう

しようか、と心配する破目に。)

9/14夕、トラカイ城からヴィリニュスへ戻るバスの1台が大渋滞に巻き込まれて延着した

ため、翌日の本番に備えての前日練習は時間を大きく削減される。

・当日夕方に残りの荷物が全部ホテルに到着して安心はしたものの、スーツケースの多数

に損傷 (足がもげたり、ひびが入ったり、傷がついたり) を発見。

9/14夜、(リーダーが面目ないことで恐縮ですが)私は下半身から上半身にまで届きそう

な酷い両脚痙攣で、2時間以上もだえ苦しむ。

     ・9/17、シャウレイでの『十字架の丘』観光を終え、ラトヴィアに向けてバスで向かう途次、

田舎レストランの昼食後に 食あたり症状を訴える方が多数発症し、途中で何度も休憩

をとることに。

      どうも昼食の 「サラダを乗っけてあった ビーツ(てんさい)の葉っぱ」が原因か、との

推論でしたが、これが旅行の後半にかけて影響を及ぼし 『心身の疲れ』 が残った方達

が多数出たのは、誠に申し訳ない事態でした。

     ・9/18、リガの市内観光中に中国系団体観光客の混雑に紛れ、一時行方不明者が出る。

・他にも幾つかの小トラブルもあり、ご本人達にはさぞお疲れが溜まったことと思います。

9/20にタリンでの演奏会・懇親会を無事に終え、9/21最終夜の打上げパーティーには

皆さんが揃って、長かった旅行中の色々な出来事を思い起こしつつ、翌日の本隊の帰国

と延泊旅行組の旅程の無事を祈りながら、賑やかな打上げとなりました。

・ところが後になって分かった事ですが、何とトラブルはその後も続いていたのです。

ノルウェーへの延泊参加者の荷物が一部ヘルシンキに留め置かれていたとのことで、

ご本人達はフィヨルドの冬の寒さの中で大変な思いをされ、仲間の衣類を借りて凌ぐなど、

不自由な旅行を強いられた由です。(荷物の中に入れていた充電器・乾電池?が問題に)

9/24の夕刻、ヘルシンキ空港の帰国予定便搭乗口で、搭乗開始の寸前になって荷物

の手配を終えられた3名の方達が間に合って現れた時には、心配しながら待っていた

双方の延泊組全員で大歓声を上げ、ハグしながら迎えたものです。(周囲の多くの日本人

搭乗客達は「この人達、一体どう言う関係なの?」 と怪訝な顔つきで我々を眺めては

いましたが・・・。

 

以上、これまでの海外遠征では未経験の色々な出来事が連発し、皆様には大変ご心配を

おかけしましたが、実行責任者としても最後まで緊張とハラハラの連続でした。

帰国報告後に、これを本当に『全員が無事帰国と言っていいのかね?とのお言葉も頂き

ましたが、今回が初参加であった5名の団員・3名のご家族達も含めて、中野先生ご夫妻、

他参加者の41名全員が、何とか日本の大地を踏むことが出来てようやく安堵した次第です。

ご参加頂いた皆様方、実行委員会の各ご担当の皆様方、最後までご協力を頂きまして

有難うございました。 心よりのお礼を申し上げて、紀行文の締めと致します。

本当にお疲れさまでした!!

 

(追記)

11/1に橋本さん、小室さんと共にツムラーレ社を訪ね、今回旅行の総括反省、指摘事項

等をまとめて伝えました。 旅行社としても初体験の事態が多数であったとのことですが、

もっと顧客に対して留意して欲しかった諸点についての申し入れをして参りました。

ご報告まで。