U、リトアニア共和国について【9/14(金)〜17(月)朝 滞在】 |
【歴史】 |
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BALTの他の国々と同様、過去に被支配の歴史の変遷を経験している。 |
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バルト海東南岸地域に居住していた諸部族が、東からやって来たスラブ人や、西からやって来た |
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ドイツ人の布教・商業・征服に次々と屈して行く中で、ただ一つ独立国家としての発展を遂げる |
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事が出来たのは、リトアニアのみ。 |
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1253年ミンダウガス大公がカトリックに改宗し、リトアニア最初の王位に就きこの国を統一した。 |
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14世紀前半にはゲディミナス大公が領土を東に拡大し、現在のベラルーシやウクライナも領土 |
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に収めて、首都をヴィリニュスに置く。 |
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1385年にはヨガイラ大公がポーランド女王との婚姻により 「同君連合」となり、周囲のドイツ |
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騎士団やオーストリアの勢力に対抗するが、その後はポーランドに吸収されることになる。 |
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(1392年にはヴィータウタスがポーランド王よりリトアニア大公位を得て、彼のリトアニア治世時に |
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リトニア大公国は バルト海から黒海までの最大版図を達成した。) |
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17世紀半ばの北方戦争以降、領土や経済はスウェーデンにより破壊され、又ロシアの影響力も |
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強まり、1795年の第3次ポーランド分割により、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国、 |
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の3か国により「ポーランド・リトアニア共和国」は解体・分割され、リトアニアはロシア領に。 |
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1915年の第一次世界大戦時にドイツ軍の侵攻を受けたが、1918年に独立を宣言。 |
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その後1920年にポーランド軍にヴィリニュスが占領されると、首都をカウナスにおく。 |
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1940年にソ連の侵攻により併合され、第二次大戦時はナチスドイツの侵攻、第二次大戦終戦 |
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後に再度ソ連に併合される等、他のバルト諸国と同様の運命を経て、1990年に独立を宣言。 |
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(第二次世界大戦中には、20万人以上のユダヤ人が強制収容、ソ連邦時代の抵抗の間には |
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パルチザンを含め国民78万人が殺され、数十万人のシベリア流刑等、悲しい歴史に弄ばれた。) |
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【国土・民族・言語・宗教】 |
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BALT3国の中では最南に位置する一番大きな国で、現在は北にラトヴィア、東にベラルーシ、 |
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南にポーランド、南西はロシア領の飛び地 カリーニングラード(旧独名で ケーニッヒスブルク) |
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と国境を接している。 |
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国土面積は日本の北海道の約80%、地形はほゞなだらかで平坦な国土で、約40kmがバルト海 |
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の外海に面している。多くの湖や湿地帯があり、国土の3割を混交湿地林が覆う。 |
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人口は約280万人、民族構成はリトアニア人が87%、ポーランド人6%、ロシア人5%、等。 |
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一方母語は、国語・公用語の リトアニア語が約82%、ロシア語が8%、ポーランド語が6%等。 |
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(母語以外の言語としては、人口の85%がロシア語を話すことが出来、24%は英語を話す。) |
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宗教はローマ・カトリックが大勢を占める約80%、他にロシア正教が4%、他にユダヤ教等。 |
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我々の訪問時期 9月は、平均最高気温16.6℃、平均最低気温7.7℃。 |
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【文化・音楽・他】 |
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リトアニアは民族音楽、衣装、ポルカ、の3王国と言われており、楽器では主に弦楽器と管楽器が |
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発達した。 |
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当国で4年に一度開催される「歌と踊りの祭典」は、国民の半数以上が民族衣装で参加する |
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国民的行事となっており、4万人の参加者、15千人の大合唱、数千人の踊りで有名であり、他の |
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2国の祭典と併せて、ユネスコの世界無形遺産に登録されている。 |
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今年2018年には 6/30〜7/6の間に開催される予定で、これに間に合わないのは残念ですが・・。 |
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下記のURLをクリックして、祭典の模様を参照下さい。 |
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http://www.dainusvente.lt/en/programme/ |
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https://www.youtube.com/watch?v=5C31vXeJBUI |
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ポルカの国としても有名で、元気な伝統音楽に合わせて木靴をカタカタと響かせて踊る。 |
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民族衣装も大事にしており、この民族衣装に欠かせないのが 腰紐(サシェ)で、その所々に |
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幾何学模様の刺繍が施されている伝統的な図柄が有る。 |
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第二次世界大戦中に 杉原千畝がカウナスの領事館でユダヤ人に対してヴィザを発給し続けて |
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救ったことも知られており、対日感情は良く両国は伝統的に友好を保っている。 |
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(「杉原千畝」については、別途カウナスの紹介の所で詳述します。) |
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@首都 ヴィリニュス 【9/14(金)夜〜9/16(日)朝滞在】 |
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【歴史地区 :世界遺産】 |
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人口約53万人、深い緑に囲まれたリトアニアの首都で、バロック様式の建物で知られている。 |
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市内にある中世の旧市街、石畳が敷かれた通りに立ち並ぶ建物には、新古典主義様式の |
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ヴィリニュス大聖堂からゴシック様式の聖アンナ教会まで、様々な様式と時代が反映されている。 |
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13世紀にリトアニア大公国の王 ミンダウガスの居城の一つとしてこの地に城が作られた。 |
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ヴィルナ川とネリス川という二つの航行可能な川が流れ、森林と湿地に囲まれた町で、守りに |
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好都合であった。 |
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1323年ゲディミナス大公がローマ法王に宛てた手紙にその名前の記録が有り、彼によってこの |
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国の首都と定められ、周辺諸国より商人や職人も集まり、東西貿易の中継地として発展した。 |
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14世紀以降のポーランドとの連合強化の結果、事実上ポーランドの一地方都市の位置づけに |
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なったが、その頃よりユダヤ人が多く居住することから 「北のエルサレム」とも呼ばれ、東欧 |
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ユダヤ人の学問・文化の中心地となっていた。 |
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その後大洪水、度重なる戦禍、ペストの流行、ナポレオンによる破壊等を経て、帝政ロシアに |
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対する何度かの蜂起もあり、街は何度も壊滅的な衰退を経験した。 |
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第一次世界大戦時には周辺各国の争奪の地となり、ポーランドの占領下にもあり、首都として |
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復帰するのは第二次世界大戦の終戦後となった。 |
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【近郊観光名所】 |
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トゥラカイ(ヴィリニュス市内から30km、9/14の昼食・観光予定) |
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・ヴィリニュスに首都がおかれる迄、リトアニアの首都であり、今も赤レンガの古城が湖の水面に |
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映える美しい観光地。 |
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観光の中心は二つの湖に挟まれた半島の様に細長く南北に伸びるトゥラカイの最も古い地域。 |
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・14世紀後半に、チュートン騎士団の侵略を防ぎ、祭事を催すために、キェストゥティス公と |
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ヴィタウタス大公によって 『トゥラカイ城』 が建設された。 |
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ヴィタウタス大公の死後、ポーランドに権力が移行された後は城は荒れ、廃墟となった。 |
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・1961年から復元が始められ、1987年にほぼ15世紀当時の姿を取り戻した。 |
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堀に係る跳ね橋、城壁の中の螺旋階段、銃眼など、戦争の為に建設されたことが良く分る。 |
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現在は城壁、本丸、ともに博物館として利用されている。 |
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・もう一つの『半島の城』は、14世紀の城。 ドミニコ修道院跡には、聖品芸術展示館がある。 |
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・15世紀初めにヴィタウタス大公により クリミアから傭兵として連れて来られた少数民族カライメ |
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(トルコ語系)の故郷でもあり、現在も200人程がその民族性を守りながら暮らしている。 |
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【ヴィリニュス市内 観光名所】 |
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城の丘 |
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・大聖堂の裏側に、ヴィリニャ川がネリス川に流れ込む丘に、モニュメントを頂いた二つの丘が |
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そびえている。リトアニアの三色旗を掲げているのが、かつての城壁の塔、「ゲディミナス塔」。 |
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街の素晴らしいパノラマが展望できる。 |
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・背後には、神々しい十字架を頂く「三つの十字架の丘」がある。 |
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この丘の上で7人のフランシスコ派会の僧侶が殺され、その内3人が磔にされたと言う伝説。 |
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3つの十字架はソ連占領の初期に破壊されたが、1989年に除幕式が行われて、再び市街の |
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パノラマを見下ろす姿を現した。 |
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ゲディミナス城 |
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・トゥラカイ城から狩りに出たゲディミナス大公が、丘の近くに野営をした際に見た夢を神託として、 |
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この丘の地に城を築くことにした、とのヴィリニュス創設の伝説が残る。 |
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・13世紀から建設が始まり、初めに丘の上の城が築かれ、その後16世紀に下の城もほぼ完成。 |
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現在、丘の上には周囲320mの城壁が残っている。 |
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【旧市街】 |
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・城壁の様な はっきりとした境界となるものは無い。石畳の道が細く不規則につながっていて、 |
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北は大聖堂から 南は夜明けの門 に到る一帯で、自分の足で歩いて周ることになる。 |
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大聖堂 |
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・ヴィリニュスのシンボルとされる、カトリックの主教座教会。 |
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・最初は13世紀に十字軍騎士団の圧力を逃れるため、ミンダウガス王によってこの場所に教会 |
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が建てられたが、その後一時は昔の自然崇拝の場所に戻る。 |
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・再度リトアニアがキリスト教化された1387年に、ヨガイラ公によって再建された。その後も増改築 |
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が続いたが、現在のクラシック様式の建築は18世紀の大改築によるもの。 |
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・最大の見ものは、リトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子(1858〜84)を祀る17世紀 |
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バロックの「聖カジミエルの礼拝所」。 正面の聖カジミエルの壁画には手が三つある。 |
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・地下には墓室があり、歴代の王家の棺が発見されており、ツアーでも見られる。 |
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・鐘楼は高さ53m、基礎部分には13世紀の城壁の塔が使われている。 |
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王宮 |
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・下の城の中心に位置して、かつては代々のリトアニア大公が住んだ白亜の宮殿。 |
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1655年にモスクワ軍により破壊され、19世紀に取り壊されて以降は公園になっていた。 |
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・リトアニアの独立回復後、2002年から再建が始まり、2013年に博物館として公開された。 |
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現在も一部は建設中で、順次公開されていく予定。 |
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聖アンナ(オノス)教会 |
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・15世紀に建てられた後期ゴシック様式の教会で、建設には33種類の異なった形のレンガが |
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使われている。その曲線的な美しさは「火焔式ゴシック建築」(フランボワイアン)の傑作とされ、 |
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500年以上を経た今でも当初の姿をとどめている。 |
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・1812年にロシアに攻め上るナポレオンが、ヴィリニュスに入場した際にその美しさに感激して、 |
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「フランスに持ち帰りたい」 と言ったとか・・・。 |
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聖ヨハネ(ヨノ)教会 |
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・ヴィリニュス大学に隣接、旧市街で最も高い鐘楼(63m)を持つ教会。 |
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1387年にキリスト教を受け入れて直ぐに建設が始められたが、16世紀にイエズス会に与えられ、 |
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18世紀には大学の教会となった。 |
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・現在のバロック様式の教会は、1737年の火災の後に改築されたもの。 |
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内部には6つの礼拝堂があり、本堂と共に多くの記念碑や彫像で飾られている。 |
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本堂の東側に位置する18世紀の祭壇は、10の独立した祭壇からなる複合的な構造をしており |
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「視覚的音楽」とも呼ばれるバロック装飾の傑作。 |
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ヴィリニュス大学 |
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・16世紀の宗教改革に対抗してイエズス会が招かれ、1570年に高等学校が設けられ、9年後には |
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大学へと改編された由緒のある大学。 帝政ロシア時代には抵抗運動の本拠地となったため、 |
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88年間も閉鎖された。 |
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・現在は2万人余りの学生が学ぶ総合大学、歴史、言語学部になっており、構内は広く迷路の様。 |
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構内の広い中庭や、建物内にも見ものが多い。 |
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聖カジミエル教会 |
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・1604年にイエズス会によって建てられた教会で、聖カジミエルはリトアニアの守護聖人。 |
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・この国の支配者が変わる度に憂き目に有って来た。 |
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帝政ロシア時代には頭の王冠が玉ねぎに付け替えられて正教の教会となり、第一次大戦の |
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ドイツ占領下ではプロテスタント教会に、ソ連時代には「無神論」博物館にもなった。 |
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聖三位一体教会 |
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・旧市街の南、「夜明けの門」に近い地域に有る、珍しい宗派ウクライナ・カトリックの教会。 |
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東方正教(ビザンチン)の儀礼を残しながらローマ法王に仕える。 |
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・16世紀のポーランド・リトアニア連合国が、正教徒の多いウクライナやベラルーシに進出した結果、 |
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宗教的妥協のために興った宗派。 礼拝はウクライナ語で行なわれる由。 |
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聖霊教会 |
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・リトアニアにおけるロシア正教の中心的な教会、ピンク色の門が目立つ。 |
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外観も祭壇もバロック様式で作られていて、ロシア正教らしさが感じられない変わった教会。 |
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・祭壇前には1347年に殉教した3人の聖人の遺体が保存され、治癒の力があると信じられている。 |
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夜明けの門 |
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・昔9つあった城門の中で現在ただ一つ残っている門。防衛に使われた5つの銃眼が残る。 |
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少し手前の左側に、内部への入口の階段が有り、小さな礼拝所になっている。 |
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・ここに有る聖母のイコンは、奇跡を起こす力が有ると信じられ、壁一面に人々が治療や幸福 |
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を願って捧げられた銀細工が並んでいる。 |
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聖ペテロ&パウロ(ペトロ イル ポヴィロ)教会 |
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・大聖堂からネリス川沿いに東に行ったところに有る教会で、バロックの町ヴィリニュスを代表 |
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する、記念碑的な建築。 「バロックの凍れる音楽」 とも呼ばれる。 |
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・1668年から7年間かけて建設され、内装にはその後30年余りの年数を掛けたと言う。 |
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ここに有る2000以上の漆喰彫刻には一つとして同じものが無いと言うが、その彫刻群には |
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圧倒される。聖人、天使、想像上の獣、植物、その他の無生物まで、意匠は多岐にわたり、 |
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建設に携わった多数の人々の技術と想像力が集約されている。 |
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・聖ウルスラのチャペルに有る薬瓶を持った「聖マリア・マグダレナ」だけは現代風の衣装で、 |
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彫刻家の中の一人のリトアニア人の奥さんがモデルになったものだとか。 |
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Aカウナス 【9/16(日)午前〜9/17(月)午前 滞在】 |
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リトアニア第2の都市。歴史は町が建設された11世紀に遡り、13世紀にはドイツ騎士団の攻撃 |
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から街を守るために城壁が造られた。 |
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15世紀半ばにはハンザ同盟の代表部が設けられて、商業活動の中心地であった。 |
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1918年の共和国独立後、第二次世界大戦時にソビエト連邦に併合される迄22年間は暫定の |
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首都が置かれ、リトアニア最大の都市として工業的にも発展した。 |
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リトアニアのほぼ中央に位置して、ネムナス川とニャリス川の合流点にある。市の中心部は |
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歴史的な街並みで有名。 |
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ワルシャワからリガ(ラトヴィア)、タリン(エストニア)を通ってヘルシンキに到る高速道路の沿線 |
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に有り、昔からの交通の要衝。 |
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日本でも有名な「杉原千畝記念館」(後述)も有り、最近は邦人観光客も増えている。 |
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【カウナス市内 観光名所】 |
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【旧市街】 |
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旧市庁舎 |
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・「白鳥」 と呼ばれる美しいバロック様式の建物で、1542年に最初の礎石が置かれた。 |
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18世紀に現在の姿に建て直され、現在は市の歴史資料を集める博物館になっている。 |
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・2階には市長執務室が再現され、白で塗られた美しい白鳥の広間が有り、ベランダからは |
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市庁舎広場を臨める。 |
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聖ペテロ&パウロ(ペトロ イル ポヴィロ)大聖堂 |
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・赤煉瓦の美しい15世紀の大聖堂。現在 リトアニアのカトリックの司教座聖堂になっている。 |
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壁一面に描かれたフレスコ画、彫刻で飾られた祭壇が印象的。 |
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・ヴィリニアウス通り側の外壁には、有名な詩人であり教会の神父でもあった、マイロニスの |
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墓が添えつけられている。 |
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ヴィタウタス大公教会 |
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・15世紀前半に建設されたゴシック様式の教会。 |
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ヴィタウタス大公がタタール征伐に出かけた際に、戦場で奇跡的に難を免れたことがあって |
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感謝の印に建てられたと言われている。 |
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ベルクーナスの家 |
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・15世紀に建てられたゴシック様式の傑作。 |
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・言い伝えでは、この場所にはかつて雷神ベルクーナスを祀る神殿があったとか。 |
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カウナス城 |
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・13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために作られた城。 |
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ネムナス川が騎士団領とリトアニアとの国境になっていたため、何度もここで戦闘が有った。 |
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・1363年に騎士団に占領され破壊されたが、15世紀にヴィタウタス大公の時代になって再建。 |
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その後は外賓を接客する際などに使われた。 |
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・もともとは台形の城壁に4つの塔が有ったが、現在残るのは修復された塔と城壁の一部、 |
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城郭の名残りのみとなっている。 |
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【新市街】 |
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ヴィエニーベス広場 |
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・ライスヴェス通りの北側にあり、沢山の記念碑が立っている。 |
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・中でも、「リトアニアの独立のために犠牲になった英雄たちの記念碑」は、最初の独立時に |
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建てられ、ソ連の占領により撤去された後に、1989年に建てられた。 |
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ヴィタウタス大公像 |
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・15世紀初めにリトアニアの最盛期を築いた大公の像。 |
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足下には、彼が支配下に置いた、ロシア、ポーランド、タタールの兵士と、折れた剣を持った |
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ドイツ騎士団の兵士を従えている。 |
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杉原記念館 |
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・現在、第二次大戦時の 旧日本領事館が、『杉原記念館』 として資料館になっている。 |
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杉原千畝氏は、近年『命のビザ』の物語・映画等でも知られるが、『東洋のシンドラー』とも称され |
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ユダヤ人の救済に努めたその人道主義に基づき 『諸国民の中の正義の人』、として世界的に |
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有名になった人。 |
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・当時のリトアニアは、第二次世界大戦開戦に伴うドイツ軍の侵攻に伴って、隣国のポーランドから |
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迫害を逃れて大量のユダヤ人が流入して来ていた。 |
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他方ソ連は、ドイツとの「BALT3国併合の秘密協定」を含む平和条約を結んだ上で、リトアニアに |
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侵入し、当時在カウナス日本領事館を開設して領事代理として赴任した杉原千畝に、日本領事館 |
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の一刻も早い退去を求めた。 |
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・一方、本国外務省は盟邦のドイツへの配慮から、ユダヤ人の難民に対する査証発給を避ける |
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様に訓令を発していたが、杉原は内地の外務省の意向に反して、ユダヤ人に対して国外退去に |
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到る直前まで 『日本通過を可能とする査証、及び渡航証明書』を発給し続けて、約6000人とも |
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言われるユダヤ人に対して、欧州から(ロシア/日本を経由して)の脱出を支援した。 |
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・彼の功績はリトアニアでも評価されて両国の友好は深まり、この杉原記念館の他、ヴィリニュス |
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には彼の名前を冠した通りも存在する。 |
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B「十字架の丘」(シャウレイ郊外)【9/17(月)午前観光】 |
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リトアニア北部の都市、シャウレイの郊外でラトヴィア国境に近い『聖地』。 |
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大小無数の十字架が立ち並ぶ様子は、壮絶な眺め。 |
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・最初の十字架は1831年の帝政ロシアに対する蜂起の後、処刑や流刑にされた人々の鎮魂の |
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ために建てられたと言う。 但し墓地では無いので、遺体は埋葬されていない。 |
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・高さ5m以上の芸術的なものから、イエスの受難像、リトアニアの英雄の彫刻、、聖母マリア像、 |
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肖像画、鈴なりに掛けられたロザリオまで、カトリックの巡礼者により置かれる様になった。 |
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その数はリトアニアの生者の数よりも多いとされている。 |
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・この十字架の丘は、抑圧された民族、宗教の象徴として扱われて来た。 |
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1918年の独立回復後、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために |
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祈る場所となった。 |
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・ソ連時代この丘は禁城とされて、KGBと軍はブルドーザーを使って何度も十字架をなぎ倒し、 |
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焼き払ったが、その都度人々は夜陰に紛れて新たな十字架を建てたと言う。 |
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・近年は十字架建立がますます盛んになって、遠く海外からも移民の人々が自国から持参した |
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十字架を残していくとか。 訪れる者 全ての思いを吸収して現在も膨らみ続けている。 |
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