バルト三国公演に至るまでの練習及びエピソード

T2 大畑道夫

私は東日本大震災があった20119月にMGCに入団して以来、20128月オーストリア、20159月中部イタリア、そして今回バルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)の3回海外公演に参加した。私にとってそれぞれが貴重な体験となり、より心が豊かになった気がする。 
さて、今回のバルト三国は合唱で結ばれたとてもハイレベルな合唱大国なので、外国語(イタリー語やドイツ語)だと粗が目立ってしまうと思われることからすべて日本語の歌詞による曲が選曲された。 

ところで、私のバルト三国公演のスタートは67日、14日に遡る。 4月下旬、指揮者の亀井さんより今回の公演に初参加する人が5人いて、しかもその中には公演で歌う抒情歌を歌ったことがない人もいるので、特別の臨時練習として2回ピアノパートを弾いてくれないかという依頼があり、その結果67日、14日の各木曜日14:30~16:302時間、「髪」、「麦藁帽子」、「雪の窓辺で」、「居処」、「朧月夜」、「もみじ」のピアノパートを担当した。私にとってピアノパートを担当するのは、昨年の合宿以来久しぶりであった。そして、5人だけと思っていた所、7日が12名、14日には15名の方々が練習に参加された。 以前、すべて定演で採り上げられた曲であったが、結構忘れてしまった方も多く、特に「髪」の8分の6拍子でカノン風に上下パートで受け答えする箇所のリズムがなかなか合わず、かなりの時間を費やした。 更に「麦藁帽子」では、パート毎に練習した際、リズム、メロディーのあやふやさが浮き彫りにされるなど、2日にわたった4時間がとても有意義でやってよかったと思っている。

そして、6/23 7/77/218/189/8の各土曜日に公演の為の臨時練習が組まれ、抒情歌(5曲)、日本民謡(4曲)、リトアニア、エストニアの合唱団との合同曲(4曲)、アンコール曲(アルカデルトのアヴェマリア)の計14曲を丹念に練習した。 その中で民謡は亀井さんの肝いりで選曲され、ヨーロッパにない曲調なので、我々も発表の目玉として取り組んだ。しかし、これが難解で「田植唄」では2つの3部合唱形態のリズムが合わないのと、アウフタクトから始まるフレーズの出だしのタイミングが合わない状況が長く続き、なかなか先が見えない。 「米搗唄」では、コーラスIIの出だしから4小節の4パートのハーモニーがピタッと合わず、「南部牛追唄」ではT2パートの主旋律の音域が高いこともあり、巧く旋律が流れない。「居処」では掛け声のリズムがなかなか合わない、等々、練習を重ねる度に課題が明確になり、高原状態が結構長く続いた。 これらには亀井さんもやきもきしたに違いない。

私の感じでは、改善の兆しが見え始めたのは、7/21の練習以降になってからの様な気がする。 さらに、30名いた参加者がこの夏の異常な気候で体調を崩されたり、その他諸々の事情により5名の方がやむなく辞退され、最終的に25名になってしまった。

参加団員の数が減れば、おのずと個人に責任がかかってくることは当然で、一時はとても不安になったが逆に団員の集中度が一層高まった様であった。一方、臨時練習を重ねる中で抒情歌に於いてハーモニーを体感することが出来、幸福感を感じたことも事実である。そして9/6(木)出発前最後の合同練習で公演参加者によるリハーサルを行なった。 

終了後、聞いて頂いた皆さんからいろいろな感想を伺った。私としては、抒情歌の方が自信を持って歌えたので(民謡には不安材料が沢山あった)、こちらの方が評価が良いと踏んでいた。しかし、大方のご意見では抒情歌の方に不安な点が見られるが、民謡の方がまだ安心して聴けるという事であった。確かに、抒情歌はハーモニーが西洋スタイルできっちりしている為、また、各パート共言葉が重なっている箇所が殆どの為、少しのズレでも耳障りになってしまう。しかし、民謡はヨーロッパの人には余り耳慣れていない為、アインザッツをしっかり押さえて勢いで歌えば何とかなるのではという感触である。まさに的を射た意見だと思った。 そして、これを反省材料として9/8最終練習を行い、いよいよバルト三国に向かうことになった。

今回、バルト三国への玄関口として往復ヘルシンキを経由した。フィンランドと言えば「フィンランディア」で知られる国民的作曲家シベリウスが誕生した国としてあまりにも有名である。市街観光の中でもシベリウス公園、シベリウス・コンサートホールを見学したが市民にしっかり溶け込んでいる様子がうかがえた。 だが、私にとってこれ以上に脳裏にあるのは、日本から約50年前に移住したピアニスト舘野泉氏の存在である。彼は、東京芸大ピアノ科を首席で卒業し、本来であれば西欧(ドイツ、フランス等)を本拠に活躍するというのが当時の流れであったが、彼はクラシックの伝統国に行くと音楽(表現)の枠がはめられてしまい、自分の考える自由な発想で音楽表現が出来ないという理由から余り伝統に縛られないフィンランドを本拠地とした。 

この時、周りから大反対されたが、チェリストであった父親を説得し、何とか願いが適った様である。 そしてフィンランド人の声楽家と結婚し、ヘルシンキに居を定め、順風満帆に世界各国で演奏活動を展開した。 その間、音楽コンクールで入賞したり、フィンランド国家からもその功績を表彰されたりしていた。 しかし、20021月フィンランドでのリサイタル終了間近に脳出血を起こし、最後の曲を演奏後、舞台袖に向かう途中で倒れてしまったと彼は後に述懐している。 その後、運よく命は取り留めたが右半身に麻痺が残り、ピアノが弾けなくなって落ち込んでしまった。

そこへ息子でバイオリニストのヤンネさんが父親の為に左手だけで弾ける曲を何曲か探してきてくれた。すると彼はこれを契機にピアノを再発見し、2年半後には左手だけで弾く曲を集めてリサイタルを行い、「左手のピアニスト」として再出発した。

友人で「居処」の作曲者である間宮芳生氏に左手の為のピアノ曲の作曲を依頼し、間宮氏は「風のしるし」という曲を彼に進呈した。 彼は早速、長崎でこの曲を初演した。

帰りのヘルシンキ見学中、現地ガイドの方からフィンランド国内で舘野氏が知られる様になったのは、左手のピアニストとして再出発してからで、かつてコンクールに入賞したり国家から表彰されたりした当時は、国民の大部分は彼のことを知らなかったと聞いた時には複雑な思いに駆られた。 

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そして、9/14(金)から9/20(木)までの1週間、リトアニア、ラトヴィア、エストニアとバルト三国に入り、コンサートが9/15(土)ヴィリニュス、9/16(日)カウナス、

9/19(水)タリンと3回行われました。尚、バルト三国での旅行記は何人かの方と同じ内容が重なると思いますので、ここでは割愛させて頂きます。

9/21(金)直帰組、ロシア組と別れた後、私達はノルウェーのフィヨルド観光に参加しました。

今回のバルト三国公演旅行はかつて2回の海外公演ではなかったいくつかのトラブルに遭遇したりいろいろありましたが、現地合唱団のレベルの高い演奏に触れ、我々も良い刺激を受けた実りある旅行であったと今振り返って思います。

これを糧にしてMGCの今後の活動に活かしていけたらと切に願っています。

最後に、この旅行を企画立案し遂行して頂いた橋本団長、コンサートの為の練習と本番で指揮をし、我々を常に明るくリードして下さった亀井さん、旅行の責任者として貴重な資料を作成して頂いたり、現地で細やかな配慮をして下さった藤原尚さん、本当にお疲れ様でした。 そして有難うございました。