はじまりの記――サントボーム遠征の思い出


                                    B1 藤本 淳三                                                           

バルト3国遠征も成功裡に終了し、MGCの歴史に新しい1ページが追加されたことは喜ばしい限りだ。それにつけても思い出すのは、過去7回を数える海外遠征の始まりーーサントボーム遠征のことだ。幸いこの7度の遠征すべてに参加できた者の一人として、このツアーの思い出を綴ってみたい。

当時MGCの団長を務めていた私のもとに、西宮に住む河原達君(‘65年メルクール)から、びっくりするような提案が届いたのは‘03年の初夏のころだったろうか。彼が言うには「来年7月、南仏プロヴァンスのサントボームで国際合唱音楽祭が開催されるが、MGCさんこれに参加しませんか」というものだった。彼が三井物産パリ支店時代の人脈からの誘いだとのことだった。

この音楽祭の仕組みは、世界各地から参加した合唱団が、主催者の指定した教会などでそれぞれの演奏を行い、最後にサントボーム地方最大の名刹「サン・マキシマン大聖堂」(マグダラのマリアの遺骨が眠っているという、由緒ある大寺院。建立13世紀?)で合同のガラコンサートが行われることとなっていた。

当時のMGCは、発足してまだ4年、翌年5月に予定されている第3回定期演奏会に向けて練習に気合を入れようとしていた時期だった。

この提案について団長としての私の第1感は、MGCは人数こそ50人規模に膨れ上がっていたが、実力的にはまだまだ鍛え上げねばならない「駆け出し合唱団」であり、それが日本代表みたいな顔をして、海外の実力派合唱団と並んで演奏会などしていいものだろうか、というものだった。

しかし、時の勢いというべきか、「思い切って行ってみようか」という結論になったのにそう時間はかからなかったように思う。

「行く」と決めたのはよかったが、それからが大変だった。

どんな曲を持ってゆくかについてはそう心配しなかった。出発直前の5月に予定されている定期では、フォーレの「レクイエム」にチャレンジすることになっていたし、ほかに、日本民謡などもプログラムに入っており、これらはプロヴァンスの教会で演奏するのに絶好の選曲と思えた。

これに対し、最も心配だったのは、奥様方も含め、50人を超える年寄り?たちが、はたして何事もなく10日を超える旅を続けられるだろうか、ということだった。海外旅行の途中バス事故にあったなどという話はしょっちゅう聞こえていたし、病気も怖い。旅慣れていないメンバーも多いだろうし、現に私自身海外勤務の経験もなく、もちろんフランス語もできない。

悩んだ挙句の結論は「神仏頼み」しかなかった。たまたま家の近所に、衆生の厄災をすべて引き受けてくれるという「身代わり不動尊」があり、家内と二人ここで護摩を焚き、懸命の祈りをささげたものだった。

また、マルセーユの日本領事館にメールを送り、これこれの団体が10日ほどプロヴァンスに滞在するので、何かあればよろしく、と頼んだりもした。これについては、もちろん何の反応もなく、おそらく馬鹿げた依頼が来たと笑われていたかもしれない。それが適切だったかどうかはともかく、これも神頼みの一つだった。

この11日間のツアーほど、驚き、喜び、感激などの想いに満ちていた旅を私はしらない。

残響が5秒も続くかと思えるカセドラルでの演奏、ロルグの教会で、フォーレに涙してくれた日本人の尼僧、夜9時開演が当たり前の演奏会、そのお蔭で宿に帰るのが12時過ぎということも。気にいった演奏には立ち上がり、惜しみなく拍手してくれる聴衆たち・・。

また、演奏会の間を縫って出かけた観光ツアーも楽しさ一杯だった。

アヴィニヨンで、本物の橋の上で皆で歌った「アヴィニヨンの橋の上で」。かのセザンヌがこよなく愛したサント・ヴィクトワール山を好きなだけ眺めたエクス・アン・プロバンスのひと時・・・どれもこれもいまだに私の脳裏にしっかり残されている。ツアコンとしてツアーに同行してくれた河原君の友人のフランス人ワイン醸造家の農園を訪ねた旅も楽しい思い出だ。

 メンバーたちも元気に活躍してくれた。中でもO君、Y, T君の3君の活躍はすごかった。昼食で立ち寄ったカシスのレストランで、店の専属?芸人が歌う向こうを張って歌合戦をしたり、ガラコンサートの後の合同懇親会の席上、スペイン合唱団が騒いでいるのに負けじとばかり大声で歌い、やんやの喝采を浴びたり・・・のちの「MGC三貴(奇?)人」の誕生である。

またこのツアーにはピアノの中野先生一家にご参加いただいたが、小学2年の史博君が、日本民謡の演奏にかわいい法被を着て鉦や太鼓の伴奏で加わってくれ、観衆からやんやの喝采を浴びたのもうれしい思い出だ。

ところで、我々が浮かれ騒ぐ中、指揮の永井さんだけはホテルに籠ったままだった。演奏会の成功のため一人緊張を維持されていたのだと思う。

 このツアーを通じて、最も私の心に残っているのは、最後の訪問地シャトードゥブルという小さな山村での演奏会のことだ。人口わずか500人足らずだそうだが、みな素朴で温かい人柄。用意してくれた珍しいクスクス料理で腹ごしらえをしたのち向かった演奏会場は、地元民が何百年にわたって守り、愛しんできた可愛らしい小さな教会。ここでMGCは最後の演奏会として精一杯の歌声を響かせた(翌日、地元新聞が「感動した神が床を震わせた」と書いてくれたとか)。

終演後、村のメインストリートに設えられたパーティ会場で、村長が歓迎の大演説をする中で、村人たち心づくしの手料理をいただきながら賑やかな交歓会となった。そのうち土産として持参した法被を村長さんに着せかけると、村長が嬉しそうに袖を振るった。すると我も我もの声が広がり、結局全員に法被を進呈する羽目となり、パーティは一層盛り上がった。後に、ツアー最後の演奏会のあとのパーティで法被を進呈する行事のルーツはこの時にある。

かくして、第1回の海外遠征ツアーは、成功裡に終了し、パリでのアフターツアーも含め、大きなトラブルもなく全員無事帰国できた。

帰国後、その報告会を行ったが、その席上私は初めて「身代わり不動尊」に祈ったことを伝え、その時授かったお札を皆に見せたりした。そしたら、何と皆に腹を抱えて大笑いされてしまった。

しかし私は、このツアーだけでなく,その後も致命的な事故もなくツアーが続けられているのは、身代わり不動尊のご加護のお蔭と今も固く信じている。              

                       (201810月記)



<追って書き>

これまでの7回の演奏旅行を通じてつくづく思うことは、このツアーに参加できたお蔭で、私の晩年がずいぶん豊かな実りに恵まれたということだ。

われわれが行く先々で体験した、歌を通しての、人々との心の交流や、思いがけない体験は、単なる観光旅行では決して得ることのできない貴重な果実だと思う。その果実を与えてくれたこのツアーに改めて心から感謝したい。