「シューベルト ミサ ト長調」
CREDO

・・・・オリジナル(混声)のCREDO後半では、祈祷文の一部が欠落してるはずだが・・・・・

By マーキュリー・グリー・クラブ 200.05.26

B1 Nです。

割愛された部分は、小林さんの引用された和訳では、われは聖・公・使徒継承の教会を信じという部分です。ほんの短い一節ですが、かなり重要な意味を持つ文言をカットした裏には(しかもすべてのミサで)シューベルトは何か意図があったのでは、と思いたくなるところです。

T1 Sです。

 立川さんが皆さんに流したピアノ版「Credo」は、混声の譜でしたが、男声と同じ祈祷文の部分に相当する音符が入っていました。現在世間に流布されている楽譜の中には、混声で例の祈祷文の部分を入れたものがあるということでしょうかね。

B1 Nです。

混声版(オリジナル)と男声版の楽譜を比較すると、男声版は混声版と小節数は全く同じで、シューベルトがカットした文言を戻すために言葉のつけ方を変えただけです。シューベルトのカットした部分の言葉を入れこむための作業としてリズムを変えた部分はありますが、音は原則として変わっていません。当然混声をベースとしたピアノ版クレドの音は原則的に男声と同じになります。

T1Sさんのメールの後半の部分ですが、小生の調べた限り(四つの版)この男声版のようにシューベルトがカットした文言を復元した混声版はありません。

T2 Nです。

崇高なるやりとりにあやかって・・・・

讃美歌320番一番の歌詞のうちありともなど 悲しむべきの意味について議論ありとのことですが、小生は前節から続けて“十字架ありとも、など悲しむべきと読むのではと思います。

 意味は"上る道は十字架にあるけれど どうして悲しむことがありましょうか”"十字架を負うことも、恵みです。あなたのもとに 近ずかせてくださいというのではないでしょうか? 念のため、昨日()副牧師に確かめましたが、そうだそうです。 それにしても音符と合いませんね。

 讃美歌21ではここはぜんぜん別の表現に変えられていますが、本来の十字架信仰の立場に立つとこの表現の方が良いと思います。

十字架上でのイエスの死が、自分にとって恵みと理屈抜きに感じることができるのがクリスチャンの価値観で、世間の常識と違います。(ただし実態はただの人間で決してまじめな人間というのではありません。)

 たまたま、昨日教会の指導的立場の人で四国法務局のトップで働いているのがメッセージしましたが、前立腺癌を医者から宣告され、近々手術することになっているが不思議に穏やかな気持ちで、医者は普通なら落ち込むはずなのに、不思議だと言っているそうです。

 そういえば、フランキー堺ふんする戦犯が無罪を信じつつ、処刑台に上る時にこの讃美歌320番をうたう映画の場面を思い出しました。

T2 Nです。

小生は旧約あっての新約という立場、で両方をあわせてたえず読めといわれております。旧約は神のさだめた律法に人間がそむくと必ず罰せられるとといています。しかし、人間は生まれながら自我をもっており、(ご承知のとおり聖書はこれを罪といっています。) 神の子イエスが罪人である人間にかわり十字架上で死んでくれ、人間を罪から解放してくれたので、感謝であると説くのが新約であり、これで一ユダヤの教えから世界宗教となりえたといわれています。

讃美歌320番は、創世記の言葉に忠実ですが、クリスチャンが歌う時はこのようなfeelingで歌うようです。小生は心底そういう気持ちにはなれませんが----

T1 Nです。

割愛された部分は、小林さんの引用された和訳では、われは聖・公・使徒継承の教会を信じという部分です。ほんの短い一節ですが、かなり重要な意味を持つ文言をカットした裏には(しかもすべてのミサで)シューベルトは何か意図があったのでは、と思いたくなるところです。

T2 Nです。

小生は旧約あっての新約という立場、で両方をあわせてたえず読めといわれております。旧約は神のさだめた律法に人間がそむくと必ず罰せられるとといています。しかし、人間は生まれながら自我をもっており、(ご承知のとおり聖書はこれを罪といっています。) 神の子イエスが罪人である人間にかわり十字架上で死んでくれ、人間を罪から解放してくれたので、感謝であると説くのが新約であり、これで一ユダヤの教えから世界宗教となりえたといわれています。

讃美歌320番は、創世記の言葉に忠実ですが、クリスチャンが歌う時はこのようなfeelingで歌うようです。小生は心底そういう気持ちにはなれませんが----