月光とピエロ(作詩:堀口大學 作曲:清水脩
秋のピエロ
・・・・堀口大学とピエロ・・・・

By MGC T1 I 2002.05.26

堀口大学の祖父は良治右衛門といって長岡藩の足軽で、戊辰戦争の際に奥羽越33藩の幕府方の同盟に加わったが敗北し戦死。妻子は会津にいったん逃げたがのちに戻った。しかし敗者となった藩は困窮。長岡藩の窮状を知って支藩の三根山藩から米100俵が見舞いに贈られたが小林虎三郎はこれを配布せず売却し国漢学校を創設。その学校の器具や書籍の購入に当てた。いわゆる「米百俵」の有名な話だ。 藩は若者の教育育成に力点をおいて将来に備えた。


 その良治右衛門の子、九万一が堀口大学の父だ。九万一は父亡き後、母千代に育てられ、12歳で論語や孟子を読破したという秀才。17歳で頼まれて岡野町の校長になる。ちゃんと米百俵は活きていた。明治18年に上京し司法省法学校に一番で入学。学校組織が変わって明治26年東京大学を卒業となる。その在学中に結婚し男子を設けたので「大学」と命名。九万一は第一回の外交官領事官試験合格、仁川領事官補として赴任。明治283月ソウル勤務となる。「大学」が3歳の時、母政が死去。大学はその間もずっと祖母の千代に育てられる。


 一方朝鮮では駐韓公使三浦悟楼がその年9.1日着任。 直ちに三浦の画策であの閔妃(ミンピ)暗殺事件が起こされた。108日のことだ。 当時朝鮮は日本、ロシアが狙っており、清につくべきかどうか割れていて、壬午庚申の変などとして教科書にもあった通りだ。すでに日本が乱暴な武力介入していた。 国王の大院君は王位を追われて幽閉され、王妃の一族(閔氏)が実権を握っていた。彼等は日本ではなくロシアを頼ろうとしていたため、これを覆そうとしたのがこの事件だ。


 そのための工作を任された九万一は袖の下などを使って警備を潜り抜け、単独で幽閉先に乗り込み、大院君と秘かに会って直談判し、決起を促した。密談を聞かれないよう言葉は交わさず、大院君と筆談で漢詩のやりとりで意思疎通をしたというから驚き。

大院君は、日本がバックアップしてくれるならというのでクーデターを決意。 クーデターといっても日本勢が宮中に乗り込んで諸外国の人々がいる目の前で殺害したのだから、とんでもない話だ。また、暗殺といっても半ば公然と行われたのだから、諸外国から日本は非難され、実行部隊の九万一は一旦収監され裁判にかけられるが、事件は朝鮮人3人を処罰して九万一は無罪になった。ところが10月には「明治27、8年事件の功に依り金参百円を賜う」、つまり政府からその功績を称えてご褒美までもらっている。明治29年漢口赴任。 9月には米英仏経由でオランダへ。明治31年ベルギー留学を命じられ、現地の女性スチナと知りあい、結婚。


 明治33年ブラジルへ。ここでアルゼンチンから軍艦2隻を急遽買い入れる交渉に成功。日露戦争直前のことで、この軍艦の活躍で日露戦争に勝利することになる。その交渉も深夜にアルゼンチン外務大臣を訪ね、さらにその足で紹介されて海軍大臣と大統領にも会い、購入を即決という大胆さ。同じように購入を交渉していたロシアより有利な即金払いで入手に成功。 購入した軍艦は巡洋艦「日進」と「春日」として 旅順攻撃に参加し 日本海海戦にも参加した。 日進には 後の連合艦隊司令官山本五十六元帥も少尉候補生として乗り込んだという。 そのほかにも明治政府はチリなどから軍艦を買っている。


 一方、大学は長岡中学時代上京した折に偶然本屋で吉井勇の歌集雑誌スバルを買い、感動。新詩社の同人になる、彼を外交官にしようとした父の指示で一高の仏法科を受験するが失敗。慶応に入り文学三昧。佐藤春夫や与謝野夫妻と親交。心配した父は任地のメキシコに呼び寄せた。途中ハワイで 喀血入院。療養中におきんさんとの恋。メキシコに着き18ヶ月滞在。西欧上流階級のたしなみとしてフランス語を猛勉。ところがここでメキシコ革命に遭遇し、市街戦の中を父は在留邦人に頼んで電報を打ち続けた。電報局へは一里の危険な戦闘地域を徒歩で。諸外国の外交官がおびえる中を他国の電報まで引き受け『大和魂』の勇名をはせる。大統領の家族は仏や英の公使館でなく日本の公使館に避難してきたのをかくまう。


 大正2年九万一スペインへ。大学は一時継母スチナの母国ベルギーに行き彼女の父の世話で銀行に勤務を始めるが、銀行員としてまともに勤まるはずも無かった。1914(大正3)年.7月ベルギーにいた大学をスペインの父が急に呼び寄せた。彼が通過した数日後には国境が閉鎖され、第一次大戦が始まった。父の機転が無ければ大学はベルギーに閉じ込められたままになるところだった。1915年 23歳マドリードでマリー・ローランサンに会う。画家、詩人として有名だった既婚夫人。その作品や人に憧れ、親交。 大学はそのまま2年ほどマドリードにいたが仕事は持たず、ひたすらフランスの詩を読む(大戦のさなかに!)。……といった経歴を知って驚いた。


 激動の世界の中を外交官の令息として当時の日本人としては通常ありえない裕福な生活の中で、詩集を自費出版できた。そして世界中の上流階級と交流する中で若い彼があの詩を書いたのだ。ルーマニアでは仮装舞踏会でピエロを演じたこともあるという。ピエロは彼自身であり、マリー・ロランサンへの片思いから生まれたのだという人もいる。コロンビイヌは彼女だというわけだ。


 大学を黄昏の詩人と呼ぶ人もいる。彼は秋を好み、黄昏を好んだという。最近偶然「月光とピエロ」という歌集が数年前にあらためて出版されて本屋にあったのを見つけて読んでみた。華やかな外交官の世界に接していた彼がこれをどんな心境で書いたのか、わたしにはその素養は無いので解説も出来ない。しかしそこには人生を突き放して眺めているような諦観というか無常観のようなものがあり、女性をうたってもなにかアイロニカルなやや退廃的な香があるのはなぜだろう。結核を患い、なんども死に瀕し、異国の女性に恋し、長く親元を離れて暮らし、父と一緒に暮らすようになってもフランス語での継母との不自由な会話で意思疎通も不十分な家庭生活、そして激動の世界の真っ只中で様々な世の移り変わりや人生模様を目のあたりにしながら多感な青年期を送った彼だからだろうか


 「月光」と「ピエロ」の結びつきがいまひとつ分からない。ピエロはヨーロッパではよく使われるモチーフで人生の一つのカリカチュアだろうが、日本人の私にはその感覚がぴんと来ない。サーカスの……といってもそれ自体が所詮外来だ。その哀歓は日本で言えば太鼓持ちか何かに当たるのだろうか。自らを隠し、偽って生きる苦しさや哀歓、正常ならざる自分の姿……。そして月、月光。アラブの民にとっては灼熱の太陽は暖かさや優しさではなく、砂漠の民を容赦なく苛烈に痛めつけるものであって、優しさは月だという。日本では月はロマンチックだが西洋ではlunaticなもの、狂気のシンボルでもある。月に吠える狼。満月の日に異常なことが起こる……。異容な姿のピエロは月の光の中で異様な安らぎを得るのだろうか。


参考:「黄昏の詩人」 工藤美代子マガジンハウス2001.3.22