「箱根八里」(編曲;林 光)
・・・・「箱根八里」についてアレコレと・・・・

By MGC マーキュリー・グリー・クラブ 2002.05.26

T1 Tです。

「箱根八里」について現代語訳を付けているホームページがありますが、疑問が生まれてきました。「往時」は果たして江戸時代?「かくこそありけれ」の「けれ」は、そうであってほしいという意味じゃないかな?


B1 Iです。

「けれ」は高校時代の文語文法でお馴染の「懸かり結び」です。前に「こそ」があると、その後の動詞や形容詞は已然形になるというやつですネ。だから、「こそ」をなくすれば、「かくありけり」、つまり「こうだったんだなア」てなことでしょう


B2 Kです。

一夫関に当たるや・・・や蜀云々は李白の「蜀難道」なる詩に出ておる由、何方か原典をご存知ありませんか?


B2 Oです。

B2 Kさんのお尋ねの李白の詩は岩波文庫「中国名詩選(中)」にあり、「蜀難道」ではなく「蜀道難」としてあります。六句からなる非常に長い詩なので、最初の一句のみを別添に掲げました。ご興味のある方は上記文庫の298頁以下をご参照下さい。

蜀道難  李白

噫吁戯危乎高哉

ああ噫吁ああ戯 あや危ういかなたか高いかな、

蜀道之難難於上青天

しょく蜀どう道のかた難きはせいてん青天にのぼ上るよりもかた難し、

蠶叢乃魚鳬

さんそう蠶叢とぎょふ魚鳧と、

開国何茫然

くに国をひら開く なん何ぞぼうぜん茫然たる。

爾来四萬八千歳

じらい爾来 しまん四萬はっせんさい八千歳、

不興秦塞通人煙

しんさい秦塞とじんえん人煙をつう通ぜず。

西當太白有鳥道

にし西のかたたいはく太白にあた当ってちょうどう鳥道あ有り、

可以横絶峨眉巓

もつ以てがび峨眉のいただき巓をおうぜつ横絶すべ可し

地崩山摧壮士死

ち地はくず崩れやま山はくだ摧けてそうし壮士し死し、

然後天梯石桟相鉤連

しか然るのち後 てんてい天梯せきさん石桟 あいこうれん相鉤連す。

 

 

(大意)

ああ、危ういこよ高いことよ。蜀への道は青天にのぼるにもまして困難だ。蠶叢や魚鳧の開国の事跡も今はしりようもなく、以来四万八千年、境を接する関中の地とも、絶えて人の交通はなかった。

ただ関中の西方、太白山の方角に鳥の通い路があり、鳥だけが峨眉山の山頂に達することができた。その後、五人の壮士が山崩れにあって遭難してから、石や木の桟道が連なるようになったのだ。

(註)
蠶叢・魚鳧 =いずれも伝説上の太古の蜀王。
秦塞 =「秦」は今の陜西省の南部、長安を含む一帯で、関中の地にあたる。「塞」は辺境の意。
太白 =長安の西方、秦嶺山脈の高峰。
横絶 =横断
地崩山摧壮士死 =秦の恵王が蜀王に五人の美女を贈った。それを迎えに行った五人の力士がしどう梓潼まで戻ってくると、大蛇が山の洞穴に首をつっこんでいる。力士たちが力を合わせてその尾を引っぱると、山が崩れ、一行は生き埋めとなり、そのあとが五つの嶺に分かれた、という伝説。
天梯石桟 =天にもとどくはしごと石のかけはし。険しい山の石をきざみ木を架した桟道の形容。
相鉤連 =鉤をひっかけるように連なること。


「かくこそありしか」、「かくこそありけれ」は確かにB1 Iさんの説通り、「かくありき」「かくありけり」と一番、二番共「過去」が正しいと思います。「願望」なら「かくこそありたけれ」「かくこそあらまほしけれ」となりそうです。文法的には確かにそうですが、詩のレトリックとしては「往時の・・・」に対し「近時の・・・」と昔と今を対比しているように思います。したがって一番と二番の歌詞では「かくこそ・・・」以下が現代語でも異なるのが自然だと思えます。「近時」を「近い過去」ととれないこともありませんが、対比の観点からは無理があるように思います。正しい現代語にするとすれば、どうしたらよいか何方か教えて下さい。


B1 Iです。

上記のコメントを読んで、改めて「けり」を広辞苑で引いてみたら、「今まで気付かなかった事実に初めて気付いた感動を表す」とありました。
この歌詞の中では、あゝでもあろうか、こうでもあろうかと想像を巡らせて、あゝ、やっぱりこうなんだよネ、と腑に落ちるといった感じを表しているのでしょうか。


B2 Kです。

文法上の解釈、そのとおりかなーーとは思いますが、「往時」と近時」の対比で考えますと、ここは「願望」で解釈したいところです。近時の丈夫は箱根八里を草鞋履きで「踏み破る」ほどの勇気をしめしてほしいものだ・・・と。


T1 Sです。

「けり」 には単なる過去 「き」 とは違って、淡い詠嘆の趣があるようです。しかし、小林説の願望 「あらまほし」の意味に解釈するのは一寸オーバーかと思います。

箱根八里の場合は、太田説、井上説のように「昔の武士はこうであったろうか」 「最近の元気な若者はこうだなあ」 といった程度に解するのが過不足のない解釈だと思います。(もっと言えば、この詩が作られた当時、猟銃を持って箱根のお山に鹿や猪を打ちに行く壮士が結構いたということでしょうか。)

用例をいくつかあげます。
心なき 身にもあわれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ
忍ぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思うと ひとの問うまで
あいみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
磨かずば 玉も鏡も なにかせん 学びの道も かくこそありけれ

(以上、上から新古今 百人一首 小学校のときの校歌)


 T1 Tです。

「かくこそありけれ」について改めて辞書を見まして関さんや井上さんのおっしゃった事納得しました。これでこの問題は、けりをつけてよろしいでしょうか。ところで、まだよくわからない所があります。

万丈の山 千仞の谷
  前に聳え 後えに支ふ
と、ありますが、「後えに支ふ」とはどういう光景を指しているのでしょうか?

意味としては、「山道を歩いていると、前には峰が聳え立ち、後ろにも山がせまり、山道を支えている」、あるいは、「後ろは深い谷が峰を支えている」ということか?


関 です。
「万丈の山」 から 「万夫も開くなし」 までは、箱根の関の険阻な様を説明していますが、言葉が対になっているところが多いので、ご質問の所は貴兄の後者の解釈の方にちかいと思います。「箱根の関は、万丈の山前に聳え、千仞の谷後に支う」 という文脈ですから、「箱根の関は、前は聳える万丈の山にさえぎられ、後ろは千仞の谷に支えられて」 守られているということになると思います。


T2 Fです。
今週(10月11日号)の週刊文春に高島俊男氏が「箱根八里」の「前に聳え後に支ふ」の歌詞に関連し、次のように述べています。

(「北帰行」に関して)
この歌は文語調の歌であるが、「今日も闇をさすらふ」を(小林旭ほか)四人が四人とも「サスラウ」とうたっている。これは「サスロ」でなければならない。

(例)
「月日は百代の過客にして行きかふ(ユキコオ)人もまたーーー」
「松竹立てて門ごとに、祝ふ(イオオ)今日こそーーー」
「櫂のしづくも花と散る,ながめを何にたとふ(タトオ)べき」
「さきくとばかり、うたふ(ウトオ)なり」

「箱根八里」に「万丈の山千じんの谷 前に聳え後に支ふ」とある。これも無論「シリエニサソ」とうたう。

ざっと以上のような指摘でありまして、岩波文庫の「日本唱歌集」には「後に支う(さそう)」としてあり「さそ」なんて変な言葉があるものかとお怒りである。