「浜辺の歌」(編曲;林 光)
・・・「浜辺の歌」の謎を解く・・・

By MGC マーキュリー・グリー・クラブ 2002.05.26

T1 Tです。

3番の歌詞が1番、2番と比べて、かけはなれていて、作詞者が何を言いたいのか、よく判りません。2行目の(赤裳のすそぞ ぬれひじし)の「ぬれひじし」と3行目の(浜の真砂 まなごいまは)の 「まなご(愛子?)いまは」の意味が把握できないからかも知れません。どなたか解明して頂けませんか?


T2 Fです。

あるHPに前段の部分についての解説が載っていました。それによると

・作詞者の古渓自身は3番の歌詞が歌われるのを好んでいなかった。
・教科書採用の際、「ひじし」は「もせじ」に、「すでに」は「すべて」に

書き換えられている、とのことです。たしかに「もせじ」「すべて」と書いている本も多くあります。
http://www.interq.or.jp/japan/k3j/song/taisyou/hamabenouta.htm

それにしても、T1Tさんの言われるとおり、この3番の歌詞はなにを言いたいのか、よくわかりませんね。

疾風(はやち)たちまち  波を吹(ふ)き
赤裳(あかも)のすそぞ  ぬれひじし(ヌレモセジ)
病(や)みしわれは すでに(スベテ)癒(い)えて
浜の真砂(まさご) まなごいまは             ???

「赤裳のすそぞ ぬれもせじ」という情景はどういう場面なのでしょうか。また、「浜の真砂」がうたわれた意味は? 


B1 Kです。

岩波文庫「日本唱歌集」(堀内敬三・井上武士編・昭和3312月発行)の 206ページに「浜辺の歌」が載っていますが、2番までしか載っていません。 注記がありますのでそのまま記載します。

 「この作品はもと3節のものとして作曲されたが、作詞者は第3節が原作の趣を失っているものとして、同節の歌われることを望まなかった。原作は多分、4節から成り立っていたが、作詞者自身、はやくその手控えを失い、再案に至らなかった。以上著作権者からの申出に従って、ここには第1、第2節の歌詞のみ掲げた。」

 全体がどういう詩であるのか不明であり、上記のような 事情があるとすれば、3番が良くわからないのは当然ですね。ところで、全4節でどんな物語を林古溪さんは語ろうとしたんでしょうね。

単に「広辞苑」を引いただけですが、
  ぬれひじし;ぬれひず[濡れ漬づ][自四・上二]{古くはヌレヒツ}の活用形。「ぬれてびっしょりとなる

 まなご・・・①砂の細かいもの。真砂   ②愛子。いとし子。

 ここでは①と②を掛けているのではないでしょうか。でも詩全体が不明なのでなんとも分かりませんね。

そういえば、3番のこの詩ははじめて歌うような気がします。それにしても、きれいな歌ですね。


B1 Kです。

作曲者成田為三の生まれ故郷、秋田県北秋田郡森吉町米内沢に「浜辺の歌音楽館」があることがわかり、そのHPで「浜辺の歌」の誕生について紹介がありました。念のため以下概略記しておきます。

明治43年、東京音楽学校の牛山充(みつる)主宰の雑誌「音楽」が創刊される。
大正2年、「音楽」48号に林古溪の詩「はまべ」が掲載される。詩は古溪が幼い日に湘南海岸(辻堂付近)を歩いた時の追憶を歌ったもの。
大正5年、成田為三が東京音楽学校在学中(22歳)に牛山充氏に作曲の試作として「はまべ」の詩をすすめられて作曲。詩の原作は4節まであったが、雑誌「音楽」に掲載時、3節、4節が一緒にされ、短くちぎれてしまったといわれている。
成田為三がどんな動機でこの旋律を書いたか不明。

・・・ということだそうです。古溪が、3節は原作の趣が失われていると言っていたとか、歌われることを嫌がっていたとか考えると、あの3番は、やっぱりわけ分からない詞なんでしょうね。

*「浜辺の歌音楽館」のホームページはこちらです。(HP管理者)     http://www.akita-museum.com/facility/index.html?id=2&option_id=26&article_id=45&user_id=10


T1 Iです。

 鮎川哲弥という人がいくつかの唱歌のルーツを訪ねて書いている本があります。彼は林古渓のご子息の林大氏(国立国語研究所の所長を務めた方とのこと)を訪ね、川端さんが書かれたように岩波文庫に載っている解説と符合する次のようなことを書いています。

 「音楽」という音楽学校の雑誌に作曲のテキストとして林古渓の件の詩が載せられ、何人かが作曲をしたようだ。しかしその詩は元は四番まであったが三番の前半と四番の後半がくっつけられていて「これでは意味が通らん」と親父はいっていた。というのです。まだ著作権などというものには関心の薄い時代で、勝手に作り替えられ、本人のあまり大げさには考えず、後に補作を奨めた人があっても「忘れた」と言っていたとか。

 情景はやはり6歳まで住んでいた辻堂あたりの海岸を詠ったのだろうという話で、鮎川氏の文章の中には、第三節には病の癒えたヒロインが浜辺を散歩しつつ、家に残してきた愛児に思いを馳せる場面がある 云々と書かれており、そういう理解をする根拠を彼はご存じなのかも知れません。

 いずれにしてもこの三節を本人が好まなかったためほとんどの歌集には載せられていないということのようです。


T1 Oです。

以前から持っていた音友社出版「日本名曲百選 詩の分析と解釈」(畑中良輔監修、黒沢弘光解説)に、3番の歌詞を中心に4ページにわたって、詳細な解説が出ています。

簡単に紹介しますと、もとの原詩は4番まであったそうで、3番以降で次第に詩全体の背景がわかってくるように作られた作品だった由。この詩の主体は女性で(赤裳の裳はすその長い衣服の美称として使われている)、この女性は激しい恋の後、身体か心(または、その両方)を病んでしまい、しばらくの時が流れて、今、そこから立ち直ったところ。その今の自分を、「浜辺の真砂(マナゴ)」と表現して、「自分は、これから先ずっと、昔の恋、昔の恋人を思いつつ、この浜辺の、寄せては返す波にさまよう砂のように、ここにさまよい続けるだろう」とうたっているのです。


T1 Sです。

楽譜を見ると一番の歌詞が三番の歌詞の下に手書きで書いてあります。


B1 Nです。

手書きは荒谷先生の自筆ですが、多分3番の歌詞は使わないという意味だろうと思います。この3番の歌詞ははじめて知ったのですが、何だか凄い歌詞ですね。我々に身近な歌でも新しい発見があるのには、びっくりします。MGCでは面白いことが起こります。


T1 Mです。

林光氏が混声合唱曲集に次の序文を書いております。ご参考のため転記いたします。

 「混声合唱曲集は、滝廉太郎、山田耕筰にはじまる近代歌曲の歴史のなかで、人々に愛唱されている名曲をえらび、合唱曲にしたものです。1964年から1975年にかけて、東京混声合唱団の求めに応じてかいたもので、小沢征爾、岩城宏之、田中信昭氏らによって初演されました。合唱曲の技巧をこらすことよりも、愛唱歌を口ずさむ楽しさを心がけたものです。

  演奏にあたっては、日本語の自然の生理にそって、わざとらしさや、おおげさな感じにならない発音と発声をのぞみます。また、ピアノ・パートは、伴奏というより、協奏的なものです。

1979年1月  
   林   光


B1 Nです。

 B1Mさんが引用された林光氏の文章にこの編曲の意図が良く表れていると思います。改めてこの文章に出てくるような大指揮者が振るのにふさわしい、単純でありながら素晴らしく音楽的な中身の濃いアレンジだと感じます。合唱の技巧を凝らすよりも愛唱曲を口ずさむ楽しさは特に我々アマチュアが合唱するときに忘れてはならない大事なポイントだと思います。

老練な大マエストロ荒谷さんが、初めてMGCを振るのにこの曲を選ばれた視点がだんだん分かってきたような気がします。