「ウィーンに歌」によせて | ||||
By MGC T1 I 2009.03.21 |
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ウィーンの歌とは 1848年のフランス2月革命に始まるヨーロッパの革命の波はオーストリアの民衆をも革命に立ち上がらせ、配下にあったハンガリーやチェコ、イタリアなどの独立運動にも火をつけた。豪腕のメッテルニヒを失脚に追い込みウィーン体制は崩壊し、オーストリアでは皇帝フェルディナントを排し、自由主義的なフランツ・ヨーゼフ1世が即位した。彼の下で民族主義的な政策やユダヤ人への迫害も改められ、周辺からユダヤ人をはじめ様々な人々がウィーンに集まって来た。リベラルな文化や産業が盛んになり、万博も開催された。ハプスブルク家のオーストリア帝国の首都として栄えたウィーンは、彼の下で19世紀の後半に城壁が取り払われ、環状道路が作られるなど大規模に整備された。こうしていわゆる世紀末のウィーンの文化が花開いた。 |
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ウィーン我が夢の街 ジーツィンスキーがホイリゲと呼ばれる酒場でワインを飲み、ほろ酔い加減で散歩するうち、丘の上からウィーンの街を眺めながら、ふと思いついて作詞、作曲したという。「ウィーンよ、お前こそいつも変わらぬ唯一つの夢の都。私の心、私の精神……」 最も有名なウィーン賛歌である。 |
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オペレッタ「メリー・ウィドウ」から「ヴィリヤの歌」と「唇は語らずとも」 本格オペラのオペラブッファに対してオペレッタはいわば一時代前のミュージカル。作曲者フランツ=レハール(1870-1948) は、ブダペストに生まれ、プラハに移った彼は、そこで音楽院に通いドヴォルザークにも師事する。1905年レハール自身の指揮で行われた「メリー・ウィドウ」初演は大成功を収める。その後、上演は連続500回以上に及び、諸外国にも紹介されて映画化もされ“The Merry Widow"という英語名の方が広く通用するほどだ。 |
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美しく青きドナウ いわずと知れたワルツ王J.シュトラウスの名曲。1866年の普墺戦争でビスマルクに大敗し、意気消沈したウィーン市民を励ますために作曲されたというのも肯ける統一と団結を訴える愛国的な歌。オーストリアの『第二の国歌』ともいわれる。ドナウはドイツの「黒い森」に発し、中部ヨーロッパの多くの国を貫通して黒海に注ぐ大河であり、オーストリアだけの河ではない。ドナウ同盟を結成する話もあったほどで、多くの国がその生活や文化を共有している。この歌の詩も当時有名だったハンガリーの詩人の「美しく青きドナウのほとりに……」という句が念頭にあったともいわれる。ウィーン男声合唱協会からの依頼で最初から男声合唱曲として書かれたものだが、ドナウをたたえた麗句の数々はまるで恋人へのラブレターのようだ。 |
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ラデツキー行進曲 拙稿の冒頭に触れた北イタリアの独立運動を鎮圧したラデツキー将軍を称えて作曲された。時代の激動の中で音楽家たちも世情に敏感になって左右に揺れていた。革命派に共感していたといわれる息子のヨハン=シュトラウス二世と違って、ハプスブルグ家の旗色に因んで「黒黄派」と呼ぶ国王派であった父ヨハン=シュトラウス一世が王国側の英雄を称えて作曲したものである。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで最後を飾るおなじみの曲。 |