Thai
正式国名 | Kingdom of Thailand |
国土面積 | 51万4000平方km |
首都 | バンコク |
総人口 | 約6,231万人(2001年末) |
言語 | タイ語 | 通貨単位 | バーツ(THB) レートはこちら |
国番号 | 66 |
パスポート残存期間 | 帰国時まで有効なもの |
ビザ | 30日以内の滞在は不要 |
電圧 | 220V |
周波数 | 50Hz |
電源プラグ | A/B/B3/BF/C |
タイ国政府観光庁
在タイ日本国大使館
Tourism Authority of Thailand←タイ国政府観光庁公式サイト
Bangkok -Written by Yusuke Koketsu-
Total staying in Bangkok(2002,Summer):16days
はじめに
バンコクへは旅の中継地点としてとどまることが多かった。
なぜならば、バンコクは世界でも有名な格安航空券を売る町であり、東南アジアの交通の中心地点だからだ。
バンコクにはたくさんの外国人(日本人も数万人いる)が滞在しているし、バックパッカーも大勢いる。
だから、バンコクでの過ごし方は、そこを訪れる人の分だけあるため、お勧めの場所も人それぞれ違ってくる。
だから、ここでは僕なりのバンコクの過ごし方について書きたい。
みんなから見たら、旅人らしくない!と叱られてしまうかもしれないがお許しください。
飛行機で出会ったお兄さんに連れられて、『この飛行機に乗ってる人はみんなカオサン目指すんだよ』
って言われ、一緒に空港からカオサン直行のエアポートバスに乗った。
バスの中は人種の坩堝。欧米各国、韓国、日本などなど、様々な人種でごちゃまぜになっている。
ただ、ちゃんと人種別に分かれて乗っているのが面白い。
カオサンでシングルルームの宿を取ったとしても、150B前後で冷水シャワー&トイレ共同、ファン付き
といったところである。カオサンは、夜遅くまでにぎやかに西洋風レストラン、コンビニ、ディスコなどが開いてるので布団に潜ってもめちゃめちゃうるさい。
たまに、隣の部屋でご乱心なさっているのでさらにうるさくなる。
それでも、常に変化の絶えないカオサン通りが大好きだ。
ここはショッピングセンターでバンコクの都会振りを見せてくれる。いつ行っても家族連れ、カップルであふれている。
僕にとっては絶好の暇つぶし&豪遊ポイントである。
僕の過ごし方は以下のような感じです。
マーブンクロンセンター(MBK)では、フードコートで飯を食べ、小物を買い集め、海賊版CDを見て回り、そして一番上の階に行き、100Bでのんびり最新の洋画を見る。
サヤームスクエアでは、服の品定めをしたりCD屋をのぞいたりして時間つぶしをする。
ここら辺には他に、映画館やタイスキ屋、またいろんな料理屋があり、日本食も一通り食べることができる。
東急デパートの日本食屋は、日本の下手な定食屋よりおいしかった☆
このBTSのsiam駅あたりでJ.Yといたんだけど、彼が言うには、僕はスリにあいそうだったらしい。
気をつけてください。
ここは、おカマさんたちの歌謡ショーをやるところだ。アジアホテルの地下にある。
定価800Bと少し高めだが、旅行会社で買うとラックレートで買える。
日本の団体客や、韓国人、欧米人などが多く見に来る。
劇場の中もオシャレな作りでいい。日本人を意識した歌を歌ったりしてくれ、サービス満点である。
オチがたくさんあるので、一時間強のショーの間、退屈することは一度もなかった。
ここを訪れたら、誰もが幸せになる。ぜひ、オカマショーには行ってほしい。
Traveling Period: Spring, 2003
今年の春、インドのカルカッタへ向かう途中、飛行機の乗り継ぎの関係でバンコクに1泊することになった。
バンコクという地については周りの友達から「イヤ!」という程様々な感想を聞かされていたので、未だバンコク未経験者の私としては、たった1日だけの滞在であったが、その土地に対する期待と恐怖は大きかった。
バンコクの街に入ってまず驚いたのが「なぜコンビニがある!?」ということ。
たいしたことではないかもしれないけれど、私にはなんとなくそれらによってタイが自虐的に見えた。取り敢えずカオサン通りに行かなければ、話のねたもない、ということでカオサンで宿探しを始めたが、5件ほど周ってすべて満室。さすが、と思った。
カオサン通りはお祭時の歩行者天国の様相を呈していて、私は宿のお姉さんに聞いてしまった「Is today, festival?」。普通に「ノー」と言われたが、一人で歩くものにとっては、なんだか淋しさを助長させる雰囲気に少し開き直りさえも感じた。
バンコク最大の思い出は、食べ物の美味しさ!暑いところだから辛いものが美味しい。そしてビールも美味い!夜の屋台は涼しい風も吹いてくるし、そして過剰に意識的に異国情緒をかもし出している(たぶん成功していると思う)雰囲気が「外国にきているわ。」という自己満足の感情を満たしてくれた。
翌日強い陽射しに圧倒され、外を観光する気をさっそく失ったが、たった1日しかいないということで、意を決して国立美術館に行った。一応一国を代表する美術館であるはずであったが、その気の抜けた感じに好感が持てた。日本の国立の美術館然りで、普通自国のナショナリズム的なものを多少なりとも昂揚させる機能でも果たしているのかと予想していたが、私の見る限りそんなことはなく、伝統美術と同様に、西洋絵画に多分に影響されていると思われる近代絵画も数多く飾られていた。それは日本と同様「当然」なことであって、タイという「異国」の地にやはり「オリエンタル」なものを求めていた自分の姿が実感された。
時計の時間を気にしつつ、昼間からビールを飲んだり、タイ式マッサージをしてもらったりして本当に短い滞在を満喫しようとした。そして合計で20時間もいなかっただろうか、インドに向けてバンコクを経った。
タイという国、特にバンコクに関しては殆ど「大好き!」という感想を聞く。私はなんだかその「大好き」を感じる暇も無く、ただその賑やかさ、雑多さ、観光客の多さに圧倒されてわけの分からぬまま都合上去らざるを得なかったのが残念。でも絶対これから何度も訪ねる国になると思う。次に訪れる時はどのように感じるのか、楽しみだ。
Maehongson -Written by Yusuke Koketsu-
Period Sep 09-11, 2002
メーホンソンといえば・・・首長族!これでしょう。
ここには、バンコクからヒッチハイクで室井滋が首長族の村を訪ねてきたし、川崎カイヤが近郊の温泉にマッドバス(体中に泥を塗る美容法)を試しに来ている。
しかも、ミャンマー国境に近いので、独自の文化が存在していて、さまざまな体験をすることができるとても面白く癒される街だ。
1日3〜5往復ほど、チェンマイからタイ航空が飛ばしている。
35分で到着するのでシートベルトはつけっぱなし。離陸前にドリンクサービスがちゃんとある。一流のタイ航空なので、接客はいいですよ!
2002年9月現在、TAX込みで870バーツ。オフシーズンだと空いているが、オンシーズンだと、ずっと前から予約しておかないとチケットが取れないらしい。
もう一つの行き方は、バスである。チェンマイから向かう場合、迂回するルートを取るので、8時間ほどかかる上、バス代が200バーツ前後したと思う。
個人的には、せっかく飛行機が安いんだから、飛行機に乗れば?と思ってしまう。
タイ航空(英語)ここでフライト情報を確認できる。
タイ北方の都、チェンマイからさらに北西にいくとメーホンソンがある。
メーホンソンの街自体は小さいため、徒歩で行動できる。
できたてっぽいメーホンソン空港も街から歩いていける。トイレもピカピカだよ。
だいたいのことが徒歩で済んでしまうほど小さな街なので、逆に居心地がよくなってしまい、沈没してしまいそうになるほどだ。
それに加え、おいしいケーキ屋や食堂、カフェ、インターネットカフェ、そして何より数えるのがめんどいぐらいの旅行業者やゲストハウスが多数存在するので、本当に心地よく生活できる。
街中の観光スポットとしては、小さいが、まずチョーン・クラ−ン湖が挙げられる。
この湖のそばにはビルマ風パゴダがあり、ミャンマー国境であることをかんじさせてくれる。
ちょうどミャンマー旅行から帰ってきたところだったので、とても懐かしかった。
それに、湖を取り巻くようにゲストハウス、レストランや路上オミヤゲ屋が並んでいるのですごしやすく、ベンチに座ってボーっとしているのも心地よかった。
もう一つ挙げるならば、コン・ムー山であろう。
ここは、街の西側にある山で登りきるとパゴダがある。
登るのは少しきついが、徒歩で登ると気持ちよい。
夕日と日の出が美しく、地元の人がぽつぽつと現れる。
僕は、雨季であるオフシーズンに訪問したので、旅行者が多くいなかった。
そのため、トレッキングを組んでもらうのは至難の業であった。いろんな旅行業者を見て回ったがトレッキングについては、なかなか首を縦に振ってくれない。
できたとしても、べらぼうに高いのであきらめてしまった。
だが、メーホンソン郊外のミャンマー国境周辺にかけての広大なエリアを数十キロメートルを歩いて回るのは当然不可能!だから、クルマをチャーターすることにした。
もう、めんどくさい!ということでGHの目の前にある旅行業者に行くことにした。
そこにいるおっちゃんも暇そうだったので1日乗っけてくれることになった。
結果として、この英語の話せる運転手さんととても仲良くなれたので、これが正解だったと思う。
首長族入場料、エレファントライド料金コミコミで1日ジープ1400B。これならいいや!
行き先は、「室井滋」も訪問した首長族(カレン族)の村(Long Neck Village)、カイヤも行ったらしいマッドスパの温泉、そしてエレファントライド、タム・プラーという洞窟、パーボン温泉にした。
このなかで、特に首長族であるカレン族の村についてとりあげたい。
首長族の村
まず最初にカレン族の村に行くことにした。メーホンソンの周辺には3つほどあるらしい。
結局、アクセスがそこそこ便利な村に行くことになった。到着早々、村に入るのに250B支払った。
たしかに、ミャンマーからの難民である彼ら・彼女らの生活をのぞくわけだから、これは致し方ない。
集金所を通り、ついに首長族の人たちを見ることができた。話はそれるが、正直なところ、このサークルに入る前まで、首長族って南米にいるもんだと思ってた。少し恥ずかしい。
そこで首長族の人たちはみやげ物やをやっていた。
小屋みたいなところで商品(民族衣装や民芸品、たまにはイスラエル硬貨のネックレスなど)を売っていた。
こうした小屋が20弱あっただろうか。彼女達はそれぞれテキトーに商売していた。
市場価格より高く、結構ぼっていた。そんな彼女達に観光客は『高い!安くして!』だとか言っていたが、彼女達はそれに応じない。
さすがである。また、付け加えておくと、首に金のコイルを巻いているのは選ばれた女の子達らしい。
そういえば、普通の首の女の子もいた。
4歳ぐらいの女の子で、首にヒモみたいなのをつけてるコもいた。将来は首が伸びるのだろうか。
女だけではカレン族は滅びてしまうので当然男達もいる。
ただ、男は日中なのに家の中に閉じこもって、ボーっとしていた。
テレビでも見ていたのだろうか、確かそんな気がしないでもない。
肩身が狭そうだった。やはりカカア天下なんだろうか。
そのなかで、一人の女の子と話した。彼女は19歳。もちろんコイルを巻いている。
彼女も店頭で商売する首長族の一人だ。そして何より、日本語を話す。
旅行者と日本語でやりとりし、話しているうちに身に付けてしまったらしい。
彼女の店の後ろには室井滋の写真がある。日本テレビの番組、『雷波少年』の企画『アジアの歌姫』で演歌歌手をしていたときの写真が飾られている。
彼女は『室井』さんを『トモダチ』と紹介してくれた。それに日本から届いた彼女のたくさんの友達からの手紙を見せてもらった。とても心が温まった。
何気なく、彼女がウォークマンを手にとるので、聞いてみたらタイ?の流行曲だった。僕としては思ったとおりだったが、彼女は少し申し訳なさそうだった。
あと、何気なく「写真をとりましょう、大丈夫?」といったら、「もう慣れました」と微笑みながら日本語で返してくれた。
村を離れる前、彼女は「日本にいつか行きたいデス」と言っていた。こんなに日本の友達がいても、彼女が日本にこれないのはいろいろ理由があるはずだ。
お金の問題はもちろん、彼女達がミャンマー難民であるという現実もある。僕達はただ、ものめずらしさで訪れるのだが、そうした事情があることも忘れてはいけないと強く実感した。
その他の観光地
他に訪れた観光地については少しずつ取り上げたいと思う。
マッドバスの温泉…日本語の看板に出迎えられる。お客さんは誰もいないようだった。
どんな感じになるのかと写真を見せてもらうと欧米人グループの写真に混じってKaya Kawasakiという人の写真も載っていた。
話を聞くと、バクテリアの効果で泥を塗ると顔がツヤツヤになるみたいだ。
とても楽しそうなので、ガイドさんも一緒にやることになった。ガイドさんの顔もツヤツヤである。
タム・プラー…大きな魚がたくさんいる公園。家族連れがぽつぽつ来ていた。やはりオフシーズンなのだろうか。
少し子供と遊んだ後、餌を持って池に向かう。餌をあげるなんて、小学校振りである。童心に返る。
エレファント・ライド…要は象乗りだ。雨季だから、無理かもしれないといわれたが、なんとかやってもらえることになった。
山の中の路なき道を進むので蚊に刺されまくる。デング熱の不安がよぎる。でも、象さんはがんがん進む。
小一時間乗った後、象からおりた。象さんは泣いていた。ガイドのおっちゃんと象をいたわった。
メーホーソンという地名を知っている人はあまりいないだろうと推測する。しかし首長族を知らない人はあまりいないのではないだろうか?以前はよくテレビでも紹介されていた。そういえば最近見ないような気がするけど、どうして?まぁいずれにせよ、メーホーソンはあの首長族の住む村への玄関口となる場所である。
さてさて、メーホーソンへはタイ第二の都市チェンマイからバスと飛行機が出ている。俺は行きはバスを利用し、帰りは飛行機に乗った。バスは約8時間。一応舗装はされているものの、道路は曲がりくねっている上にアップダウンが激しい。バスはとても古いので、坂道を登るときなどこのまま止まってしまうんじゃないかと心配になるほどのろのろと進む。おまけに車内は暑く、シートは硬く、地元のおじさんが持ち込んだ謎の食品の匂いでむっとしていた。飛行機は快適で、片道30分かからなかった。食べ物はさすがに出ないけれど、冷えたオレンジジュースが出た。俺が行ったときは税込みで420バーツ(1200円くらい、今はもうちょっと高いらしい)。ただし、欧米などからの団体旅行者などがチケットをおさえてしまうので、早めに予約した方がよいらしい。何はともあれ、俺としては飛行機をお勧めしたい。
メーホーソンから首長族の村へはツアーを申し込む。俺の記憶では個人では行けなかったと思う。一泊ツアーなんかもあるらしいので、興味のある人は探してみるといいかもしれない。俺は行きのバスのおかげでそんな元気はなかったので、日帰りツアーを選択した。タイにおいてはほとんどの値段が交渉で決まるが、このツアーも交渉次第で安くなると思う。まぁどっちにしてもそんなに高いものではない。
村へは車で行く。メーホーソンから1時間かそのくらいだったと思う。悪路だがバスよりはずっと快適で、体がぐらぐら揺れ、ときには尻がシートから浮くことがあっても、眠ることができた。自分でも不思議に思うんだけど、東南アジアを旅行していると、車の一部をしっかりと握ったまま眠る技術を習得できる。もちろん個人差はあるけれど、けっこう多くの人ができるようになる。本当だよ、これ。それにしても首長族の村まで車で1時間ちょっとの場所まで飛行機で行けるというのは考えてみるとなかなかすごいような気がする。
首長族は一応ミャンマーからの難民である。だからタイの国籍は持っておらず、よって住む場所も職業も自由に選択できるわけではない。そんなようなことを俺のガイドは言っていたと思う。最近はどうなのかよく知らないけれど、タイとミャンマーの国境付近では少数民族間の争いが絶えず、平和に見える首長族の村も、一歩外に出ると地雷が残っていたりするらしい。勝手な行動は慎みましょう。それにしても少数民族間の武力紛争ってなんかすごいね。
一口に首長族の村といってもいくつかある。いくつあるのかはよく知らない。俺が行ったところは首長族の他に、耳長族と足太族という人々がいた。耳長族というのは耳に大きなピアスのようなものをしていて、おばあさんになるとそれはもう、ビックリするくらい耳が長い。耳たぶが顎のあたりまで伸びている。足太族は足(膝のちょっと下あたり)に金属の輪のようなものをつけて、そこから下の部分を太くしている。なぜそんなことをするようになったのか、俺の英語力(というよりはガイドの英語力)によって知ることはできなかった。残念。
最初首長族を見たとき、やっぱり驚いた。本当に首が長い。おおっ、と感動。しかしすぐに慣れる。まわりの人がみんな首が長かったりすると、それが普通に思えてくるものなのだ。だから首長族に囲まれていると、自分の首の方が異常に思えてくることさえある。うーむ。こんなことを書くと皆さんの夢を壊すかもしれないけれど、首長族の村はけっこう観光化されていて、突然日本語で話し掛けられたりする。こういうことがあるとけっこう面食らうんだけど、それでもめげないで頑張る。首長族の女の子に「なんでやねん」とツッコミを入れられるというのも、なかなか素敵な出来事である。
こんなに観光化されているのは、彼らがタイ政府に一般的な仕事を許可されていないからであり、彼らの収入源といえば観光客が落とす金くらいなのである。だから俺も首の輪っかや布やバナナの葉で巻いた煙草などを購入してけっこう売上げに貢献した。しかしどれもあとで後悔するようなものばかりだった。いずれにせよ、このようにして首長族は現金収入を得、魚屋のトラックが村にやってくると、みんなでそこに群がって川魚を買ったりするのである。これはどう考えても絵にならないんだけど、それはそれで面白い。
ところで、首長族の中で首が長いのは女性だけで、男性は別に何ともない。彼らは町に出て仕事をするわけにもいかないので、周辺の森で薪を集めたり、民族工芸品を作ったり、あとは何もせずにボーっとしていたりする。こういう姿を見るのもまた楽しい。この村においては、働いて現金収入を得るのは女性の仕事なのだ。そう思うとこの村の男性たちに親近感がわく。しかし、しばらく男性を眺めたり彼らと話をしたりしていると、首の長さに関する感覚が元にもどってしまい、そこを突然女性が通りがかったときに再びビックリすることになる。やっぱり首が長い。
女性にしても全員がいつもビジネスライクに微笑んでいるわけではない。もちろん彼女たちだって気をぬくときがある。ふと見ると椅子に寝そべってラジカセで音楽を聴いていたりする。こういうのを見るとけっこうホッとしたりするけれど、こんなところにもラジカセがあるのか、とちょっとがっかりしたりもする。ものすごく勝手な考え方かもしれないけれど、やっぱり首長族の人々には昔ながらの伝統的な生活をしていてほしい、と思ったりもする。
というわけで、首長族の村は一見の価値があると思う。日本からもっとも速く行くには、日本→バンコク→チェンマイ→メーホーソンと飛行機で行くルートが一般的だと思う。乗り換えがうまくいけば、下手すると2泊3日くらいでいけるかもしれない。そう思うとありがたみが減りますね。
※ ガイドが言っていた(と思われる)ことをそのまま書きましたが、彼の英語力はかなり疑わしい部分があり、当然筆者の英語力も十分ではないので、情報に誤りがある可能性があります。当方では一切の責任を負いかねますのでご了承下さい。またこの文章はタイや首長族に対する好意をもとに書かれたもので、特定の人や団体を中傷する目的は一切ないことをご理解下さい。
Traveling Period: Spring, 2002
2002年の春、バンコクからシンガポールまで、マレー鉄道で半島を縦断した。
ここではタイ中部・南部の2都市を書こうと思う。
騒々しいバンコクを離れ、南下を開始する。Surat Thaniへは夜行で12時間だ。
車窓からは人影はおろか家らしい家さえ見えず、ゴムのプランテーションが続く。
2等寝台は文句なしの快適さだ。通路の両側にある2人用の座席が2段のベッドになる。メイキングも係がやってくれるし、何より広い。空調はないが夜なので暑くもない。窓から入る風が心地良い。バンコクからタイ南部やマレーシア方面に向かうなら絶対にオススメのアクセス方法だ。
開けっ放しにしていた窓から入ってくる冷気に目を覚ますと、空はもう白み始めていた。疎らに立つ木々の向こうに山が見える。山というより岩だ。巨大な岩が置いてある、とでも言おうか。
しばらくすると太陽が見え始める。朝日に照らされた景色は何もかも、例外なく美しく見える。
朝日に涙したら、間もなく到着だ。
駅を出ると客引きが寄ってくる。ここはサムイ・パンガン両島への中継地なのだ。僕は島には渡らず、この田舎町でゆっくり過ごした。
この街の住民は本当に親切だ。地図を見て立っていれば必ず声を掛けてくれる。バンコクの人とはまるで性格が違って見えた。
宿に辿り着くまでどれくらい歩いただろう。目印もない街で地図を片手に歩くのは楽じゃぁない。それだけに着いたときはほっとした。
滞在中は港をぶらぶらと散歩するのが一番楽しかった。市場に並ぶ見慣れない魚に手を付ける気にはならなかった。
歩いているだけで楽しいからそれでよかった。
次の目的地、Hat Yaiに向かうため駅に行く。
線路の上では、犬が眠っていた。
Hat Yaiは、マレーシア国境に近いバンコクに継ぐ大都市。
街を歩くにもしばらく滞在するにも何かと便利な街だ。僕も散歩がてらショッピングセンターに何度も立ち寄った。
ショッピングセンターと言ってもこぢんまりとしていて、日本ならスーパーと呼ばれそうなものだ。ちなみにどういう訳かエスカレーターは止まっている。止まってるエスカレーターを歩いて登るのは、普通の階段を登るときの倍の体力が要ることを知った。
売ってる物も相当怪しい。今となっては僕の宝物であるピ○チュウまがいのぬいぐるみはここで買った。実物とあまりにもかけ離れている。意匠権の侵害で訴えても棄却されるに違いない。タイの物価からしたらいい値段だったような気がする。
宿は駅の近くにある中国系のホテルを取った。
清掃のおばちゃんは、僕が鍵を上手く開けられないのを見てゲラゲラと笑っていた。
と言うより僕に会う度に大声で笑っていた。
どうやら彼女は無尽蔵の笑いのツボを持っているらしい。
僕は彼女が何で笑っているのか全く分からなかったので、ちょっと不安だった。
Hat Yaiから再び鉄道に乗り、マレーシアへ向かった。
あの笑いは、まだ頭に響いていた。
タイは私にとって初めて降り立った外国。正直、特別タイに行ってみたいわけではなかった。とにかく外国へ行きたくて、先輩にすすめられるまま計画を立て、パスポートを取り航空チケットも取った。そして7月末、バンコクへと飛び立つ。"すすめられるまま"と書いたけれど、海外初心者の私にとって、タイはちょっとした冒険気分を味わえるし、そのわりに安全だし、食べ物も安くておいしいし、やはりよかったと思う。バンコクの空港に降りた時のむっとした熱気や独特のにおい。夜、空港から街へ向かうバスの中から見た道路沿いの赤やオレンジ色のライトが忘れられない。
バンコクは車、バスが多くて排気ガスもひどかった。街の中の交通手段はバス、タクシー、トゥクトゥクと呼ばれる三輪オートバイなどがある。安いバスを一番利用したが、はじめの内は停車してくれないバスに飛び乗るのに気後れしていた。車内には車掌さんが一人いる。おばちゃんだったり若い男の子だったり様々、客が乗り込むと彼らは乗車券を売りにやってくる。彼らはおそらくブリキ製であろう乗車券筒をもっている。長さ30センチほどのそれには蓋がついていて片手で開閉できる。あるおばちゃん車掌のはやたらカラフルでかわいかった、彼女はその蓋を絶えずカチカチ鳴らしていた。感心したことはどんなにバスが混み合っても彼らは確実にお金を集めにいくことだ。仕事だから当たり前といえばそうなのだが、小型とは言えないようなバスの中を彼らは人ごみをかきわけて徴収しにいく。日本だったら「ありがとうございます。」の一言くらいはありそうだが、彼らがそのような言葉を発したのを聞いたことはなかった。いつも不機嫌そうである。それでもどこそこへ行きたいと言うと、ちゃんと教えてくれる。
タイのご飯はヘルシーだしおいしいと思う。ナンプラーとパクチーの匂いをはじめは臭いと思ったが慣れると結構やみつきになってしまう。暑いので辛い物もおいしくいただける。 南の国なので果物が豊富にあった、スイカ、パイン、メロン、バナナ、ドリアンなどなど。 それらのシェイクがとてもおいしかった。特にバナナシェイク!紙コップで売っている物や、ビニール袋に入っていてそれをストローで飲むタイプもあった。調子に乗っていろいろ食べたせいか、または慣れない料理にお腹がびっくりしたせいか、はっきりと原因はわからなかったが、断続的に腹痛と下痢に悩まされた。出国前にポリオの予防接種を打っておいた、しかも臀部に…。おかげでポリオにはならなかったが、お腹は終始不調だった。それでもよく食べたな、おいしいから。
宿は主に国立競技場周辺を利用した。この辺りは静かだし、ちょっと歩くとすぐにバス通りで、スカイトレイン乗り場も近くとても交通の便がいい。激安ではないが、だいたいどこもきれいで過ごしやすかった。ただWhite Lodgeというゲストハウスではエアコンが故障して、夜中ずっと汚水がしたたり落ちていた。運悪くその真下に荷物を置いていたため、朝気が付くとすっかり水浸し、バックの中の衣類までぬれてしまった。怒ってオーナーに何とかしてくれ。と抗議すると、謝罪することはなく直しておくから。とだけ言われた。夕方戻ると荒っぽい応急処置がなされその下には桶が置いてあった。やはりタイ。マイ・ペン・ライ(気にするな。)かな。
サメット島。バンコクからバスで3時間、ソンテウと呼ばれるジープの荷台に乗り、船で約40分とそれほど遠くない。島にはいくつかビーチがあるが私たちが行ったのは波が穏やかで人気だというウォンドゥアン・ビーチ。けれどちょうどオフシーズンだったので人もそれほど多くはなかったし、宿も割引してもらえた。バンコクの喧騒から逃れ、南の島へやって来た解放感で白浜のビーチにたどり着いた時はみんなおおはしゃぎだった。砂地で水の透明度はそんなに良くはなかったけど、温かく海水がやわらかく感じた。早速水着に着替えて波乗りしたり、木陰でのんびり読書したり、リゾート気分を満喫した。たった2泊3日だったけれど、とてもすてきな場所だった。
タイ旅行といっても実際はバンコクとサメット島にしか行っていない。バンコクは史跡、建造物を見るというよりも遊ぶのにいい所だと思う。映画を観て、ハードロックカフェで飲んで、踊って。買い物をして、初めてのオカマショーは衝撃的だった。私にとってタイは、まだまだ未知の国だ。
タイは今や人気の観光スポットである。物価が安く低価格で長期滞在が可能、首都バンコクでは他のアジアの近隣諸国をはじめ世界各国への格安航空券がすぐ手に入るとあって、欧米人や日本の学生の姿もよく見られる。貧乏旅行にはうってつけというわけである。
さて「観光地」化した場所というのは楽しく魅力的であり少々やっかいな場所でもある。 歴史的に貴重な資料やものめずらしい文化見たさに観光客が集まる場所またはその近辺には、大抵お金目当ての人々がいる。物売り、物乞い、スリ、そして詐欺師。二年前(2001)の夏、このサークルに入って間もない私たちバンコクで1人(?)の詐欺師に出くわした。その珍体験について話そうと思う。
この夏私たちは女の子4人で旅をした。2週間という短い旅ではあったが、4人中私を含めた2人が海外初体験ということもあって常に緊張感(特に初体験組)が漂っていた。バンコクに滞在して3日、その異様な空気にも慣れ、明日はアンコール・ワットの待つカンボジアに旅立つ事が決定している。バンコクとも数日間ではあるがおさらばだ。そんなわけで市街地にある王宮博物館に行こうということになった。そのとき私たちは王宮からそう遠くないところにいた。歩いていける距離である。
王宮の近くにはタマサート大学という大学がありその横にはだだっ広い広場がある。広場を歩いていた私たちは1人の男に呼び止められた「Where are you going?」。これはタクシーやトゥクトゥクなど乗り物の客引きが観光客を呼び止めるために使う常套句である。しかし彼はバイクにまたがっているわけでも車の窓から顔を出しているわけでもない。声をかけられたのは道路から離れたところ、広場の中。いつもなら無視するか「No than you.」とでも言って素通りするところだが私たちは立ち止まった。「Where are you going?」「Museum.」とだけ答えた。それを聞いた彼は博物館は休みだよと言う。そして・・・「You are very lucky!」行きたかった場所が休みだというのに一体何を言い出すのかこのおっさんは!と思ったその時、「ある有名なシルクの店で一年に一度、1週間限りのセールがあるんだ。今日はその最終日だよ」という内容を英語で話し、ひたすらYou are very lucky!とエキサイティングしている。どうやら私たちはツイているらしい。そして彼は自慢気に自らのYシャツを指差し「これもシルクなんだ。」と言う。確かに肌触りは良さそうだ。シルク・・・・悪くないかもしれない。
彼はタマサート大学の教授であった。専門は歴史だと言う。気さくな雰囲気で、シルクの店に行くためにトゥクトゥクの運転手に話をつけてくれ、ついでに「なかなか見られない寺院があるからそこも見てくるといいよ」と、その寺院にある4つの仏像について説明し始めた。「Sitting Buddha, sleeping Buddha, standing Buddha・・・」観光客はあまり行かないようなところにあるようだし見に行くのもおもしろそうだ。「Four Buddha?」「Yes, Sitting Buddha、sleeping Buddha, standing Buddha・・・」ちょっとしつこいよと思いつつ、私たちはかれにお礼を言ってトゥクトゥクに乗り込んだ。
トゥクトゥクに揺られて最初に連れていかれたのは例の寺院だった。観光客がたむろする市街地とはうって変わって、決して裕福とは言えないタイの一般市民の生活が垣間みられる路地の片隅にその寺院はあった。車道(と言ってもきれいに舗装されているわけではないが)の脇には見たこともないほど巨大なドリアンが山のように積まれている。米俵のようである。無邪気に遊ぶ子供たちの姿も見られる。そして小さな門をくぐるとそこには小さな寺院があった。しかし仏像の大きさはなかなかである。記憶が定かではないが体長7〜8メートルはあっただろうか。確かに4体の仏像がある。Sitting Buddha, sleeping Buddha,・・・。階段を登るとまた大きな仏像を奉っている御堂があった。そこには1人の男がいた。私たちの他には誰も、ましてや観光客など全く見当たらなかったのできっと近所に住んでいる人なのだろうと判断した。私たちが入って行くと彼は興味ありげに尋ねてきた。「Where are you from?」「Japan.」Japanという単語に異様に彼は反応し、自分は日本の銀行に勤めていたことがあると話し始めた。日本のことはよくわかっているらしい。仏教の宗派について、しまいには東京六大学についても「Waseda, Keio, jochi・・・」などと語り始め、そしてタイで一番の名産品(織物)は何かと私たちに尋ねてきた。「Cotton?」
「No, no!」「・・・silk?」「Yes!」私たちがシルクの店に行くことを告げると、「実は私も昨日5着ほどオーダーメイドしてきたんだ。」と生地の切れ端を何種類かとりだし、いかにその生地が上質であるか熱弁を奮っている。クイズと熱弁に少々疲れを感じた私たちは寺院をあとにした。
シルク専門店に着くと数人の店員が私たちを迎えてくれた。壁の棚には色とりどりの生地が並べられ、製品を着用した首無しマネキンが数体並んでいる。奥のテーブルには、おそらくファッション誌から切り取ったであろうと思われる、一流ブランドのスーツをまとったモデルたちの写真を集めた本やファイルがたくさん置いてあった。スーツをオーダーメイドする場合はその中からデザインを選ぶのだと店員は言った。とは言っても全てのデザインがOKというわけではなさそうだ。私が見ているページを店員は無理矢理めくって「こっちのデザインならできるよ」と言っていた。うーん・・・イマイチ。一時は何か買おうかという気にもなっていたのだが、これといったものもないので結局何も買わずに出てきた。
暇そうに待っていた運転手は次に私たちを宝石店へ連れていった。上品な感じのお店である。日本の宝石店のようにダイヤだのルビーだのまばゆいばかりにきらめくような高級そうな代物はなかったが、気軽に使えそうなチープなアクセサリーが私たちのおしゃれ心をくすぐった。旅に出てからというものずっと、動きやすく汚れてもよい服つまりどうでもよい服を着ていたため、きれいなものに飢えていたのである。気が付くと4人それぞれ何かしらを購入していた。
私たちはトゥクトゥクで再び街の中心街に戻ってきた、降りようとした時、運転手が私たちにつきつけた運賃は最初に交渉した値段よりはるかに高いものであった。このようなことは日常茶飯事である。この運転手はわりと悪人面だったので、自分たちが主張していた値段より少し高い運賃を払いさっさと逃げることにした。
宿までの帰り道、私は今日一日の出来事を思い出し、1人で悶々と考えこんでいた。他の3人は「良い人だったね」「今日は良い出会いがあったね」とはしゃいでいる。はたしてそうだろうか。私にはどうしても心にひっかかる事がいくつかあった。まず、自称タマサート大教授と寺にいた男は共に私たちにシルクを薦めてきた。悪人面の運転手ですら運転の最中にパンフレットを見せてまでスーツを作らないかとしつこくアピールしてきたのである。次に、その運転手は頻繁に携帯電話を使い誰かと連絡をとっているようだった。タイ語なのでさっぱりわからないが。そして、何より話がうまくできすぎている。1年に1週間限りのセールの最終日。そういえば寺の男も「この寺は一年に一度だけ公開されるんだ」とかそのようなことを言っていた気がする。怪しい。私の懐疑心はたちまちふくらみ、ある時ぽろっと口から転がり出てしまった。「あの教授とおっさんがぐるだったらどうする?」この言葉を聞いた3人はどう感じただろう。きっと私のことを軽蔑したに違いない。私自身も、他人の好意を素直に喜べない、ひねくれた自分を恥じていた。案の定3人は「なぜこの子はそんなことを言うのだろう」と心の中で憤慨している様子であったしかしこの不快な発言によって3人の心にも疑いや不安が少しわいてきたようでもあった。気が付くと皆の足取りが自然と速くなっていた。誰もが「早く宿に帰りたい」という気持ちになっていた。
宿に着き部屋に駆け込んだ私たちは、急いでガイドブックを開き「タイでの被害報告」のページを熟読し始めた。それは旅行者からの現地での窃盗、詐欺、事故などあらゆる被害報告がとりあげられているページである。そこにはまさに今日一日のことが記述されていた。自称タマサート大教授を名乗る男に声をかけられいろいろな店に連れまわされた話、寺にいた男にスーツのオーダーメイドを薦められた話、運賃交渉のトラブル(これはその時に限ったことではないが)。全身の力がぬけてしまうような驚きであった。明日はもうカンボジアだ。タイですらこのような出来事に巻き込まれてしまったのだから、いかにも治安が悪そうなイメージ(当時の私の固定観念)のカンボジアなんて生きて帰って来られるのか・・・そんな不安が頭をよぎった。
当時の私にとっては相当恐ろしい体験であったのかもしれないが、今思い返してみると笑ってしまう。あのとき自称タマサート大教授は4人の持っていたそれぞれのカメラで私たちの集合写真を撮ってくれた。その写真は4人それぞれが1枚ずつもっていて、それらを見る度にこの事件のことが話題にのぼる。良い(?)思い出だ。命にかかわるようなトラブルでなくて本当に良かった。
チェンマイはずいぶん栄えている。東南アジアではけっこう大きな都市に分類されるのではないだろうか。スタバもあったんじゃないかと記憶している。といってもバンコクのようにゴミゴミしていないので、過ごしやすい。物価もバンコクに比べれば安いし、長期滞在にはぴったりの場所である。バンコクの交通渋滞とスモッグには誰もがうんざりするから、バンコクから行くと益々快適に感じるかもしれない。
といってもチェンマイにはバンコクのような観光名所はあまりない。タイの寺院はどこに行っても金色で、三つもまわれば飽きあきしてしまうから、チェンマイに着いた頃には寺院巡りをする気にもなれない。少なくとも俺はそうだった。ナイトバザールはなかなか面白いけれど、バンコクのウィークエンドマーケットに比べるともの足りない。まぁ人それぞれ楽しみ方があるだろうから、別にいいんだけど。
それじゃあ何をしにチェンマイまで行くのかというと、俺とてはトレッキングをお勧めしたい。チェンマイからはずいぶんたくさんのトレッキングツアーが出ている。コースも日程も様々である。俺はバナナゲストハウスというところに泊まっていたので、そこのツアーに参加した。ここは日本人がとても多いゲストハウスなので、ツアーの参加者も日本人が多い。俺のときは全員日本人だった。外国人と同じツアーになるとそれなりに面白いこともあるけれど、コミュニケーションの問題もあるしけっこう疲れることが多いので、ツアーのメンバーとしては日本人が無難だと思う。
二泊三日のツアーだったので、はっきり言って疲れた。とにかく長い、と思った。シャワーがあると言われていて、どうせそんなわけないだろうとは思ってはいたが、「これがシャワーだ」といって連れて行かれた場所は普通の川だった。というわけで、三日間ずっと早く帰ってシャワーを浴びることばかり考えていた。
だからといってつらなかったわけではない。むしろ、(今となっては)面白かったと思う。メンバーにもめぐまれたので、ずいぶん仲良くなった。医学部や美大など、ちょっと特殊な大学生はどこで会ってもたいてい面白い。経済学部や商学部の学生がたいていつまらないのはどうしてですかね?悲しいところですね。
トレッキング中の食事はほとんどガイドが作ってくれる。これが意外に美味しかった。昼食はその場で作るわけにもいかないから、バナナの葉で弁当を作ってくれた。これがなかなか趣があってよい。朝ご飯のお粥もなかなかだった。ただし衛生状態はあまりよろしくない。トレッキングに行くような人はほとんどがすでにある程度の期間東南アジアを旅行している人なので、お腹をこわしたりはしないのだが、日本から直接行ってあのツアーに参加するのはちょっときついかもしれない。
ほとんどのツアーでは象に乗ることができる。俺としては象に乗るという体験そのものよりも、象使いを見ることの方が楽しかった。まず「象使い」という響きが非常によい。それからタイの山奥で生活するという、ちょっと孤独な生活がよい。象使い達はどうやら象の耳の裏を足で蹴って象の動きを制御しているらしいのだが、もちろんこの象使いの社会においても、上手い人と下手な人がいる。象が何かうまそうなものを見つけたり排泄するときなどは、上手い人でないとどうにもならない。こういうのってちょっと切なくて、それでいて楽しいので、ぜひお勧めしたい。
他にも少数民族の村に行ったり、滝を見たり、いくつかのハイライトがあるが、そういう「いかにも観光」というのは、しばらく旅行していると飽きてくる。まぁこういうのも人それぞれですよね。いずれにせよ我々はあくまでも旅行者でしかないわけで、そこらへんがちょっと悲しいところだったりするんだけれど。
トレッキングのことばかり書いてしまったけれど、チェンマイは一度行く価値があると思います。是非一度どうぞ。
前日は持ち物が気になって徹夜で準備して、激しい眠気を抱えたまま出発という最悪の状態だった。つーか成田空港に行くのも初めてで空港第二ターミナルとか意味分からんのじゃボケと突っ込みを入れていたくらいである。しかし、まず第一発目の衝撃はエアインディアの機体を見たときである。ボロボロで塗装の剥げた機体を見たときはマジでビビった。そして、機内に乗り込むとそこらじゅうぶっ壊れたところをビニールテープで補強しているという有様である。そしてとどめは離陸した後しばらく何度か急降下して落ちそうになったのである。しかも、乗客のインド人はその状況を楽しんでるではないか。乗客自体もがらがらだった。「なんだああこの航空会社は」エアインディアに乗って後悔した。まあ、なんだかんだでも一応バンコクに着くのである。初めて違う国の大地を目の当たりにした、日本とは明らかに雰囲気の違う田園風景が広がっている。そしてそれを見るだけで感激モノなのである。長年の憧憬の対象であった海外の大地に初めて立とうとしている。そのときが実際に訪れるということだけで満足感があふれ、恍惚とした面持ちで窓の外を見つめていた。
そして空港に着くとまったくもってどうすればいいか分からない。とりあえず両替を済ませたら、他の客はどこかに行ってしまっていた。あわてて歩き出す。空港の外に出るのに苦労するとは思わなかった。そして、でたらでたで人多すぎ。当たり前すぎだが外国人ばかりで驚いた。そしてその人たちが座ってるベンチに腰掛けようとするのさえためらうへたれなのである、俺は。おろおろしてバックパックを背負ったまま歩き回る。しかし、そんなことをしても状況が改善されるわけがない。というよりこれからどうするのかまったく考えていなかったのである。計画も糞もないのに旅などできるわけがない。作戦を立てるのが第一である。なんで日本では何も考えてなかったんだあああああああああと言っても後悔後先たたずである。このとき初めて気づいた、何事も予習が大事だってことを。そして、もうどうすればいいか分からず、おかあちゃんごめんなさいと泣きそうになった。しかし、泣いてばかりいても状況は改善されない。地球の歩き方を開いてとりあえず市内に入ることを考えよう。初心者として不安だったのでタクシーを使ってみた。ところがこれが全くの大誤算。タクシーの運ちゃんにカオサンにいけと告げたが、向こうは勝手に英語で話しかけてくる。よしよし、長い受験勉強で鍛えた英語力がようやく本領を発揮する日が来たなと調子に乗って会話していたが、なんだか様子がおかしい。変なホテルの前で止まりやがった。しかも、ボロイ部屋で700バーツとかぬかしてるし。「ここはカオサンじゃねえだろ、ハゲ」などと日本語で散々罵倒したあげく、タクシーでカオサンに向かった。
しかし、今にも雨が降りそうな雰囲気のなかタクシーは大人しく進む。地図を見てもここがどこか全く分からない。不思議な空間だった。官公庁らしき建物はいかにもタイらしき雰囲気を醸し出し、霧の中から現れる姿は不気味だった。不安は常に付き纏う。自分の知っている感覚とはかけ離れていた。そして、新鮮だった。いちいち見える窓の外の風景に感動し、人々が歩いている姿をいちいち目で追いかけたり。初めて物を見たときの感じる、あの不思議な感覚が好き。そして、慣れてしまったら2度と味わえない。いや、飽きっぽい性格ではない。
そしてカオサンに着くと、またしても驚いた。さっき外国人ばかりと書いたが、そのときはタイ人ばかりだから当たり前。今回は欧米人や日本人ばかりでほんとに外国人ばかりだ。しかも、怪しげな風体の人間がいっぱい歩いているし。どうなってんだ。とはいえもう夕刻、あと1時間くらいで日は沈みそう。宿を探さねばならぬ。しかし、いっぱいありすぎてどこにすればいいか分からんのだな、これが。いくつか部屋を見せてもらうと、これがショック死しそうなほど汚かった。こんなとこに泊まれねえよと思った。しかも冷房がなくてひたすら暑い。外もうぜえほどうるさい。なにをするでもなく空しく外をうろうろ歩いていた。とそのとき日本語で話しかけてきた人がいた。親切にどの宿がいいとか教えてくれて優しかった。そしてちょっと高めの冷房つきの宿に泊まった。それでもフロントで英語だけで対応するのも一苦労。受験英語のパワーを見せ付けるぞと息巻いていたが、How much?すら忘れていて、What batts?などと聞いていたのである。そうすると向こうは「んぁ?」などと眉をひそめて返してくるのである。よく考えたら部屋はありますか?もどう聞けばいいのかわからないんだが。しかし、英語ができなくとも部屋は取れる。外は暑かったし冷房の効いた部屋は快適である。とはいえ水シャワーはきつかった。何ゆえにお湯が出ないかと深く考えたものだ。それにしてもカオサンというところはとにもかくにも騒々しいところだ。外ではわけわかんない言葉で喧嘩をしてるし。怖くて眠れなかった。寝付いたのは3時だろうか?その間ずっとこれからのことが不安で仕方なかった。
次の日、起きたのは12時過ぎていた。うおお、いきなりチェックアウトタイムを過ぎてるじゃないか。料金請求されたらかなわんぞ。とはいえ何食わぬ顔でチェックアウトできた。昨日の夜はぐっすり眠れなかったのか疲れた。というかふかふかのベッドで眠りたいよ〜。カオサン怖いよ〜。という感じで激しくいいところに泊まった。1000バーツ越えのホテルである。そのきれいさに驚嘆を隠しえない。そしてふかふかのベッドに入るとそのまま眠りこけてしまった。起きたら午後4時有名観光地のワット・ポーや王宮はすでに閉まっている。かといってホテルに引きこもるのも面白くない。外でて歩き回った。うん、まずはバンコクの雰囲気になれることが重要だと街を闊歩し始めた。しばらくすると、変なおっさんが話しかけてくる。「ワットインドラヴィハーンまで往復25バーツでどうだい。」うむこれは安いだろう。と受けるとやつは俺を乗せて出発した。このときトゥクトゥクに乗ったのは初めてだったが、とにかく排気ガスがきつい、特に止まっている間は。走り出すと爽快ではあるんだが。そしてやつはチャオプラヤー川沿いの公園に連れて行って見に行かないかと誘ってきた。夕暮れの風に当たって俺はそこで涼んだ。そのときはやつのことをいい人と思っていた。疑う気持ちがなかった。そして、約束のポーだけじゃなくいろんなポーに連れてってくれた。そして日も暮れかけた頃最後のポーを出ると俺はありがとうといってトゥクトゥクの親父とバイバイしようとした。これ以上構ってると怪しげな予感しまくりだし。しかし、やつは俺を必死に引き止める。ショーに行こうぜヤスイ、ヤスイを連呼する。俺はもう帰るんだと帰ろうとするが実はここがどこか分からないから帰りようがない。ホテルに帰れよとやつに指示して帰ろうとする。ところがやつは全然別のほうに行きだす。またまたお母ちゃんごめんなさい状態に陥った。夜のバンコクの街をかっ飛ばすのは心地よくもあり、不安でもあった。
そして俺はどんどん引っ張りまわすやつにキレまくりだった。最後には25バーツだけ渡して去ろうとした。しかし、俺の手をガシッと握り離さない。なんとか金を払い逃げられたが、相当な罵り合いをしたものだ。この一件でへたれの旅行者だった俺は大幅にパワーアップした。そして今日金を使いすぎたために、後半戦は金が尽き苦労するのであった。
カンボジアに入るにはビザが必要である。カンボジア大使館の近くに宿を取り、向かうことにした。正門らしき場所に辿り着いた。しかし、普通に閉じられていて人の出入りする気配が全くない。ゴンゴンドアを叩くと守衛のおっさんが出てきて「ここは9時から12時までで今日は閉まっている。翌日出なおして来い」と追い出された。翌日不覚にも寝坊をしてしまい、12時を10分ほど過ぎてしまった。また、同じおっさんが出てきて「閉まった」を繰り返す。しかし、このオヤジやたらめったらにやついて態度が目に障る。何か腑に落ちぬものを感じながら、その日もとぼとぼ帰って行った。次の日はカンボジア大使館行くのだりーといった感じでタクシーを使っていった。そうすると今までとは違う入り口で下ろしてくれたではないか。こっちにも入り口があったのか。しかも入ったら昨日のオヤジがいるし。午後も普通にあいてるようだしなんか骨折り損な感じ。結論ビザは日本で取っておいたほうがよいです、できるだけ。
この間かなり時間を不毛に過ごした。大使館近くのルンピニー公園を散策しのんびりする。ボーっとするには最適の場所だ。海外に来て何をしてるんだかと思われがちだが、俺はあくせくとした旅のスタイルは苦手なのだ。そこそこ広い公園だが特に見るものはない。おっさんが将棋ともなんともつかぬゲームを日陰でやっていたり、子供がサッカーをやっていたり、また、夕方になると人が大量発生し、ジョギングを始めたりとただ彼らの行動を眺めるだけ。不毛ではあるがなかなか和む時間でもある。そして、飛び立つ鳥を目で追いかける。日本では考えられないことだ・・・と思ったがよく考えると自分は日本でもよくボーっとしているとバッシングされることが多いな。どうもボーっとするのが自分の趣味らしい。
タクシーのおっちゃんが地図が読めないため、宿から2キロもあるところで、下ろしてもらった。このおっちゃんは日本に一度来たことあるといって日本の写真を見せてくれた。京都へ行ったようだ。しかし、嘆息をもらすかのように、首を傾けながらもう二度と行かないという。なぜなら、物価があまりにも高すぎるらしい。経済格差をひしひしと感じさせられ何か自分の胸に空しさを憶えた。
そしてタクシーを降りて目的地に向かうが、勝手な独断でこっちのほうが近道だろうと判断して、路地のほうに入っていったがこれがとんだ大失敗。プラトゥーナム市場という規模の大きい市場に迷い込んでしまった。しかも、庶民の市場なのか人が多く活気がある。普通に歩いている分には問題ないはずなのだが、なにぶんこちとらバックパックを背負っているから骨を折る。前からも後ろからも人が次から次へとタックルしてくる。「マジでうざい、いい加減にしろ」と叫んでもただ空しく響くだけ。まあ、相手からすればこんな狭い路地ででっかいかばん背負ってる俺のほうがはるかにうざいだろう。その道中ではいきなり黒人が話しかけてきて、「おい、そこの日本人東京出身か大阪出身か?」などとまるで知り合いに気軽に挨拶するようなさわやか過ぎるほどの笑顔で聞いてくるではないか。ノリで大阪と答えた。別にどうということはないのだがタイ人に騙されてきてほとほとしていた俺にはなぜか実体以上に清々しく感じた。そして元気が出た。また、夜になってからの帰りにもスラムみたいなところに迷い込んで犬に追い掛け回されるという危機を迎えてしまった。宿には無事に着き、一休みしてからワールドトレードセンターに向かった。伊勢丹などは日本資本の高級デパートなのでもちろん用はない。しかし、まだ日本が恋しい時期なのである。どんな物が売っているかとか気になり日本人がいるのだろうかと気になったり。そしてここに来ている、日本人の団体客のおばはん連中は全く英語が話せないみたいだが、臆することなく、圧倒的に尊大な態度で日本語で堂々と尋ねている。相手は日本語が理解できないはずなのになんと通じているではないか。このとき日本のおばはん最強じゃんと深い感動を覚えたのであった。
次の日はカオサン周辺に宿を戻して活動を再開した。そろそろ最低レベルの安宿に泊まれるようになってきた。とはいえまだ、いったいどれくらい変えてないんだといわんばかりのシーツには抵抗がある。あと、ファンだけではやはり暑苦しい。この日はワット・ポーに行こうと思っていた。ところが、途中で何人か組みの人間に捕まって今日は特別な日だから閉まっているという。だから違うところに連れてってやるよという。しかし、学習能力のある俺はいやな展開を思い出した。相手も粘り強いが散々煽りあったあげくに逃げ出してきた。ところがその閉まっているという言葉は信じてしまったから、今日は街歩きに専念することにした。旅のスタイルは当然ながら人それぞれだが、俺の場合は何も有名観光地を訪れたり買い物をすることだけではない。とはいえそれを骨組みにして旅を形成することは事実だ。移動の基本は徒歩である。そして街歩きはその楽しみの一つである。しかも、気分によって急に行き先を変えたり、予定変更が次から次へと出てくるので一人じゃないと話しにならない。そして、俺はほてほてと見知らぬ街を歩き、そしてその雰囲気を感じ取ることが至上の幸福だったりする。ここはどうなっているんだろうとかあそこにはなんかありそうだから行ってみようとかほとんど小学生と変わらないことをしているわけだ。もちろん旅の目的は○○が見たいなど特定のものが多いがこういう異文化の見知らぬ街を見たい、実際に歩いてみたい、その雰囲気を掴み、そこに住む人々の感じを知りたいという衝動に駆られるために旅に出たいと思ってしまうのではないかと自分で気づいた。そしてこの日のことは実はよく憶えていないのだが、バンコクの街を歩けるだけで幸せだったのではないかと思う。
しかし、バンコクは雨季なのかよく雨が降る。降る時間帯は決まっていて朝から昼にかけては爽快感を感じさせるような、日本よりはるかに青みの深い晴れ空が広がる。そして、夕方あたりになると一雨あるというパターンが多い。スコールというと土砂降りが短時間でやむイメージが強かったが、そこまでではないようだ。しかし、日本のようにしとしととした雨が丸一日粘着に降り続けるようなことはあまりないようだ。数時間程度でほとんどの場合はやむ。とはいえ今回の旅では雨に悩まされたことは多かった。雨は街歩きの天敵であるからだ。
8月29日、この日は普通ならばバンコク到着当日か翌日に観光に行くはずのワット・ポーにようやくたどり着くことができた。ワット・ポー内はかなり広い。見るからに荘厳な建物が渦巻いていてその建築模様の美しさ、日本との異質さには目を奪われる。そして、目玉のスリーピングブッダはでかい。とはいえ歴史背景や事情を一切知らない俺にはブッダが何ゆえに横たわっているのか分からない。それでも見た感じで楽しめるのである。思わず立ち止まって見とれるような建築物がある。俺にはそれで十分だ。そしてここの名物のひとつに本場のタイマッサージがある。初めは手荒に扱われていてーいてーと叫んでいたが、終わったあとには体が軽くなり気分最高、といい感じなのである。そして指圧されて本気で痛いところは、体がおかしいとまで指摘してくれる。あとからいくつかのマッサージを受けてみたがここにかなうところはなかった。そして、タイの寺院の特徴的なところはその中に学校が存在しているところである。しかも観光客から隔離されておらず、簡単にいけてしまうのである。俺もその中に迷い込んで子供が楽しそうに遊んでるのを見てきた。やつらはノリがいいのか俺にも笑顔を振りまいてくれ微笑ましかった。
次の日はワット・プラケオと王宮に潜入である。ここはきんきらきんのまばゆいばかりの建築物が立ち並び、異次元の世界のようだ。お伽噺の世界に迷い込んだ感覚を覚えた。そしてエメラルドブッダも拝んだ。このときは実はそれがどんなものかよく分かっていなかった。そしてこれが何を意味するかを知ってからラオスに行けなかったことを後悔するのであった。ここでの小さな見所のひとつに何時間も突っ立ったまま微動だにしない兵隊さんがいる。なかなかすげえな、と感心しながら観察していたが、親に連れられた現地の子供がこの兵隊のお兄さんに面白がってちょっかいだしまくるではないか。右手に携えた銃剣をいじったり、挙句の果てには触ってはいけない局部をごしごし叩くのである。しかし、この兵隊さんは全く動かない。変わらず、ただ遠い目で正面を見つめるのみである。普通ならこんなことをされると銃剣でうざいガキを滅多切りにしているところであろう。これぞまさしく男の中の男である。俺は心が震えるほどの感動を覚えた。そして俺も便乗して彼の頬をぺしぺし叩いてみたが無反応。もうかっこよすぎである。彼はプライベートではもてもてに違いない。王宮から出てくるとポストカードの連なった、たたみ折りのお土産を売りつけてくるガキに遭遇した。200バーツを連呼するが、俺は自分の思った50バーツから一歩も譲らず15分ほどの戦闘時間を経て落とすことができた。そしてこれを日本の友人から頼まれていたお土産にすることにした。彼には500円もらっていたから、これでかなりの飯代を浮かすことができたのである。
そして外に出るとまだ日が暮れるには早い時間帯なのでぶらぶら歩きながらカオサンまで帰ることにした。適当に散策していると変な市場みたいなところに迷い込んだ。ここは仏教関連のものが多く売られているようだ。
常々思うが、タイ人の信仰心の篤さは半端じゃない。俺を騙したトゥクトゥクの親父でさえ寺院では慇懃な態度をきっちりとるのである。また、BTSと呼ばれる高架鉄道の車窓から見える仏教関連の祠を目にすると合掌を始める人間が出る始末である。日本で生活している俺としては何かを信仰することが信じられなかった。そして、その信仰心を内心どこかで馬鹿にしていた。しかし、後の中国旅行でも痛感させられたが、彼らの熱心な信仰心を見ると、そんな考えを抱いていた自分の心の偏狭ぶりを改めて感じるのである。そして、その信仰心をときとして、いやかなり頻繁に利用しようとする人物が出てくるのは愚の真骨頂である。
しばらく散策を続けると大学らしきところにたどり着いたので、入ってみようとした。しかし、一見して観光客と分かる身なりをしているためか、あっさりと却下された。そして、自分の今いる位置にとまどいながらも、なんとか王宮広場というだだっ広い広場に到着。ここでいきなり男が話しかけてくるから、警戒モードに突入。しかし、普通に親切な奴で、タイはいいよみたいに教えてくれた。こういうときは疑って悪かったと後悔するもんだ。もう一人国立博物館前でボーっとしていると話しかけてくるおっさんがいた。身なりも不思議なほど綺麗で、博物館のエンジニアをしているという。明日遊びに来いよと誘ってきた。そしてこれからどうすんだということで、どうもしないと答えたら、スーツの工房見にいってみろという、面白いからと。そしてガイドブックに何か書き込み、トゥクトゥクは白ナンバーが認可、黄が非認可だから白ナンバーに乗ればよいと助言してくれた。いい人だと思いつつもレベルアップしている俺は警戒を怠らない。ちょっくら騙されてやるかなぐらいの気分で白トゥクトゥクを捕まえ、ガイドブックを見せる。なにやら理解した様子で、まずは近くの寺院に連れてってくれる。ブラックブッダとか抜かすところだ。そこではなぜかキックボクシングの練習風景を見せてもらえたからよしとしよう。そして、次の目的地はスーツ工房のはずである。で、着いたら怪しげな小さな店しかない。まあ、ちょっくら中に入ってみるとこれまた怪しげなおっさんが、ブランド物のスーツ格安で作りますよとか言ってくる。次から次へとブランドの名前を出してきて破格の値段ですよを繰り返す。うっせーなこの野郎と挨拶を入れておきながら、全然ブランドなど分からないのだ。これもこれも知らないというと相手は「マジでか?」と心底驚いていた。プラダとか言うメーカーは聞いたことあるがそのスーツが42000円で作れるらしい。俺はたかっと普通に思っていた。俺は紳士服の青山でフレッシュマンスーツ2万円で買ったんだよ、高すぎるんじゃボケと英語で表現できないので日本語で言った。相手もしつこく食いついてくる。「お父さんにスーツ買ってあげなよ」、「親父は死んだ」。「お母さんにスカーフ買ってあげなよ」、「おふくろも死んだ」。「妹は?」、「兄弟はいない」。ここまで来ると相手がぶち切れ出して店から追い出される始末である。とりあえず自称博物館のエンジニアも騙りだったようだ。次の日博物館に行ったら当然のように見かけなかった。
8月最後の日、午前中は博物館に行き、午後は友人Kや先輩と会うことになっていた。結局友人しか見つけることができなかった。その友人をはじめて見つけたときは、風体が多少変わっていたので、一瞬判別がつかなかった。とにかく日焼けしたということだ。そして彼はすでに旅の中盤だからいろいろな話を聞けた。俺がこれから行くであろうアンコールワットの話は念入りに聞いておいた。この話を聞いて俺はカンボジアという国にかなり恐れをなした。夜に歩き回ると危険だとか警官が賄賂を要求してくるとかそして、カンボジア―タイ間を陸路で行くとかなりのきつさであることも聞き、絶対空路で行くということを心に誓ったのであった。旅に慣れるまではカンボジアに行くのはよそう。レベルアップ待ちである。このとき金が尽きるということはもちろん想定していなかった。そして、この日はタイスキという代物を食べた。ひとりでは食えないものだからありがたかった。しかも、そんなに値段がはらない。野暮だけど、最後に入れるご飯が一番おいしかった。ダシに入れるタイ米は最高にうまいということが発覚した。うむ、今までひとりで空しく食っていたので心が洗われた気分である。
次の日は高級ホテルをシェアして、そのあと二人でウィークエンドマーケットに行くことにした。ここはやたらめったら人が多い。後にここで財布を掏られたという日本人にあったが、ポッケの後ろに突っ込んでたらそりゃ盗まれるだろというぐらい人が多い。そして全貌を把握するのは不可能なほどに広大な面積である。個人的には買い物というものに食指を動かされない。しかし、こういうところを歩き回りどんなものが売ってるのか拝見するのは好きである。要するに「見てるだけ」の精神である。あとは、店のおっちゃんやおばちゃんと価格交渉の駆け引きを楽しむのも好きである。とりあえず、お茶を買ってこいとの命令が下ってるので、その辺の店で、適当にいくつか茶を拾ってみた。そこではディスカウントが効かないのが玉に瑕である。そのお茶を溝に落とすという不覚の出来事が起こったのは内緒である。しかも、よりによって動物エリアの中である。後に学園祭でそのお茶を使ったが、まあ、病人が出なかったんだから余裕余裕。それに加えて暑さ対策のための帽子も手に入れた。しかし、ここはとにかくひたすら歩き回ったという印象が強い。しかし、ここで一番強烈に印象に残った出来事は昼飯を食っているときである。なぜか友人と和食を食べていたがそのとき、料理を運んできたビルマ人らしき男性が、妙に親近感あふれる表情で友人に向かって「おまえはビルマ出身か?」などと聞いてくるのである。「いや、俺は日本人だから」と必死に否定する友人。そしてビルマ人の表情が残念そうなものに変貌する。このやりとり俺は茫然自失として見守っていた。まさか本気で間違えられるとは。現地人が日本人に向かって、いかにも親しげな表情で話しかけてきて、現地人と区別つかないといっておだてる手はよくあることだ。これまた意味不明に友人は下半身にビルマの民族衣装を履いていたが、一応椅子に座っていて目立たないはずなのである。あとで、聞くところによると、ミャンマー国内に入っても、普通に時間聞かれたりすることがあったりするそうだ。それほど、現地人と区別がつかないのであろうか?羨ましい限りである。これなら危険な目に遭う確率がぐーんと下がるし、彼らと親しくなれるチャンスが増すものである。このあと、喫茶店みたいなところでパフェを食べたというのもよく歩いた証拠である。
とりあえず、いったん戻って一休みしたあと夜の街に繰り出すことにした。しかし、この時の出来事は筆を置いておこう。健全な人間の俺としては何の問題もないが、名誉を守ることも時には重要である。
次の日9日間も滞在したバンコクからようやく旅立つ日が来た。寂れたマッサージ屋でマッサージしてもらってから、ファランポーン駅に向かった。まず荷物預かり所を探すのに一苦労。で、駅に入ったら入ったでいきなり変なおっさんが声をかけてくる。「どこに行きたいんだ?」「スコタイ」。するとウォーターウォーター繰り返す。何が言いたいのか意味が分からん。そして、偶然手に持っているガイドブックに目をやると、こいつらは危険などと書いてあるのにそのまま当てはまるではないか。それが分かった途端180度方向転換、奴らが遮るのを余裕で無視して、正規の切符売り場に向かった。スコタイに列車で入るにはピッサヌロークを経由して行かなくてはならない。切符は当日でも取れた。ただし、上段しかなかったが。友人の方はラオスに行くのでノーンカイ行きの列車に乗った。先に発つ友人を見送ってから、俺はこの2,3時間ほどどうしようか迷った。すると、大学生風かつ関西弁ばりばりの男が俺に話しかけてきた。そしてスコタイに行った彼の情報によるとあっちの地方では洪水が起こっているらしい。さっきのおっさんの言ってたことがようやく理解できた。夜も眠れない雨にびっくりしましたよってそんなにひどいんかい。この瞬間不安がよぎった。大丈夫かな、怖いな。とへたれっぷりが復活し始めた。後にもう一人の日本人も突如会話に参加してきた。いかにもな超おんぼろの服を身に纏い、旅慣れた雰囲気を醸し出しているが、実は海外来るの初めてらしい。顔も余裕たっぷりなのに、さっき夜中のスラムみたいなところに迷い込んで裸のおっちゃんが怖かったですよと言っていたギャップが面白い。これから無人島に行くつもりらしい。やっぱりつわものでないか?初めの関西人は俺と旅行期間がほとんど変わらないのに北に南に移動しまくっていて、タフだなあと感心した。この人たちのおかげで暇も潰せ、俺は列車に乗り込み、次の目的地に向かうのであった。
ところで、移動手段のなかでも列車というものは最も旅情を誘うものだと思っている。これは俺の個人的な感覚かもしれない。窓の外に流れる風景をただ眺める、そしてそれだけで哀愁が漂うのだから、天下一品である。あの、走っている最中の微妙な揺れ方もなんとも言えない・・・と書くと乳の揺れ方を見ているようだな。もちろん俺はそんな妄想をする変態ではない。話を戻して今回の寝台列車は上段である。そして、そこからは景色のへったくれも見えない。寝台車は小学生の頃から憧れていたものだから少々残念である。それでも独特の旅情を噛みしめながら、別れゆくバンコクを惜しみ、次の目的地に思いを馳せた。ピッサヌロークには午前5時くらいに到着する予定になっているから調子に乗って爆睡はできない。3時間程度の睡眠で3時ごろに起きた。辛くはなかった。ただ、途中下車なのできちんと降りられるかどうかが心配であった。列車が止まると起きている人にうざいほど尋ねて回る。だが、それも杞憂に終わった。俺が外国人だと知った車掌は到着するときに教えてくれたのだ。いい人だなあと素直に感謝した。
まだ、夜も明けぬこの時間帯。外に出ても、ひっそりと静かであった。ピッサヌロークは地方都市としては大きいほうなんだろうが、それでも小さな町。タイはバンコクだけ図抜けた大都会のようだ。そして俺に話しかけてきたトゥクトゥクのおじさんにスコタイに行く旨を告げると、バスターミナルまで乗せていってもらった。料金交渉をしても一向に下がらないのでケチな野郎だなと思っていたが、どうやら料金は一定に決められているらしい。ここから、スコタイ行きのバスに乗ったが、全くのローカルバスで、座席も硬く間隔も狭い。乗りづれえと駄々をこねたくなったが、こんなことで文句を言ってると話にならない。出発する前には陽も上り始め、人々の1日が開始する時間とちょうど重なった。登校のためにバスに乗り込む小学生たち。楽しそうに談笑を始めるおばさんたち。人々がひっきりなしに乗降を繰り返す。そして車掌も楽しそうに皆に笑顔を振りまくのであった。ひとりその中に場違いに自分が紛れ込んでいた。そして、窓越しにはのどか過ぎるほどのタイの田園風景。まるで、過去の世界にタイムスリップしたみたいだ。そして俺たちが暮らす東京タイムとは時間の流れ方が全然違うように感じた。時間の流れ方が違う、その形容を、身を持って体感することができた。
スコタイのバスターミナルに着いた。そうすると、客引きが宿をしきりに紹介してくる。俺はこの手の客引きには絶対に乗らないタイプだ。自分で宿を探す。泊まりたいところはあらかじめ決めておいたが、市内まで連れて行ってくれるトゥクトゥクがない。仕方なく客引きを説得して、その宿の部屋も見るからということで連れて行ってもらうことにした。しかし、客引きは目的の宿が洪水で閉鎖されているという。嘘付けということで実際に見に行ったら本当に閉まっていたのでびっくりした。いくつか回った後に仕方なく客引きの宿に泊まることにした。ここに泊まっている日本人もここは安いし、きれいだからいいよと褒めていた。その人は3ヶ月もこの町に滞在しているという。それで毎日何やっているかというと、延々と木彫りみたいな工芸品を作っているのだ。不思議な人もいるもんだと思った。俺ならこの歩いてもすぐに回れるほどのコンパクトな街には3日も滞在すると飽きてくるだろう。そして、目的のスコタイ遺跡に行くにはいくつか交通手段がある。遺跡公園は広いので俺はバイクという移動手段を使うことにした。とかいいつつも実は免許も持っていないし、原付も乗ったこともない。宿の主人にそれを告げると露骨に嫌な顔されたが、それでも操作の仕方を教えてくれ出発することにした。ところが、ただでさえ曇り空だったのに出発した途端に雨が降り出した。泣きそうになったが我慢して遺跡公園まで向かうことにした。すぐかと思っていたが意外に遠かった。そして向こうに着いても雨が激しいからか観光客もまばらだった。入場料を取られるはずなんだが、そんなこと気にせず、バイクで突っ切った。文句も言われなかったしOKだろう。時々ものすごい勢いで雨が降ったかと思うと、止み始める。その合間に遺跡を見に行く。雨が止んでるときもどんよりとした曇り空が天を覆い、地面には水溜りが点在する。そして草木は十分すぎるほど水分を吸い込み、水滴をしたたり落とす。肝心の遺跡は水分を含み、黒味を一層帯びていた。熱帯のタイといえどやや肌寒いくらいだ。そして、この状態でも調子に乗ってバイクをかっ飛ばしていた。3次元の世界で遺跡が体感できる。自分が動くと徐々に遺跡が迫り、角度が変化する。表情を変える。2次元の世界では感覚が掴めない、あの質感。ぽわーっとしながら、一種の喜びを噛み締めながら歩いていた。そして、人影もまばらの中、その廃墟ともつかぬ遺跡群を探索気分で歩いていた。インディージョーンズが好きだった俺としてはその音楽がしばらくの間脳内でループし続けていた。しかし、こんなときに予期せぬ出来事が起こった。「ぬわぉぉぉおおおおお、いてぇぇっぇええええ」カーブを曲がるとき、不覚にも車輪を滑らせてしまい、俺の身体は車体から放り出された。全身に傷を覆い、血がどぶどぶ流れてくる。とはいえ痛みは感じない。それより、うぉぉぉぉおお、ズボンが破れてるじゃねえかぁぁぁっぁああ。あと、時計がぶっ潰れたじゃねえかぁぁぁぁぁぁああああ。高校入学のときに買ってもらった1万5000円もする時計なんだよぉぉぉぉおお、おらぁぁぁ。小学生の頃、車に跳ねられて、買ってもらったばかりの自転車を完璧に壊して、泣きそうになったのを思い出した。お母ちゃんごめんなさいと天を仰いで泣きそうになった。気をとりなおそう。近くにある唯一の店に寄り、傷口に付いた泥を落とそうと考えた。店の中に入ると、いかにも人の良さげなおっちゃんが俺のことを気にかけてくれ、水で洗わせてくれ、さらに店に売っている、赤チンを俺にただで塗ってくれた。俺はその優しさに感激しっぱなしであった。ここの人たちには英語が全く通じない。言い尽くせぬ感謝の気持ちを伝えることができないもどかしさが辛かった。ここで帰ればいいものをまだまだ見るものがあるということで、メインの遺跡公園から出て、やや外れたところにある遺跡を見に行くことにした。よしよし、やはりバイクに乗っててよかったな。ところが、ガイドブックの地図もかなり適当ですっかり道に迷ってしまった。ちょうど近くを通りかかる日本人二人組みに道を聞いてもよく分からないという。仕方なく適当に回っていると、不意にヤギを放牧している光景に出会った。まるで、スナフキンを彷彿とさせる人がそれをただじっと見据えるだけで、何をするでもなく見守っていた。普通ならなんでもなくスルーしてしまうだろう。俺はなぜかそこに立ち止まってその光景を凝視していた。不思議な感覚だった。そのときの「あの感じ」は覚えているのにどうしてそれを言葉で伝えられないんだろう?自分の表現力のなさ、語彙力のなさが改めて身に染みる。切なさとも空しさともつかぬ感情。どこか胸を締め付ける感情。無性に心をくすぐられる。なにげなく空を見上げた。そんなことを思う自分がおもはゆくて仕方なかった。などと書いてもこれが全く意味不明なんだな。バイクを30分以上飛ばしてもなかなか着かない。明らかに変だ。ちょうど側を通りかかるおばあさんに尋ねてみた。遺跡名を見せると全然違う方向という素振りをする。俺のジェスチャー解析によると、とっくの昔に通り過ぎてもう来すぎってことらしい。ずたずたの身体でもう疲れた。今頃気づいたがガソリンが尽きるという最悪の事態も起きそうであった。慌てて引き返し、なんとかガソリンも補充して宿に帰ることができた。そして、宿の主人はこんな俺を心配してくれ気遣ってくれた。そしてバイクの籠をひん曲がらせたのに弁償なんてなしに許してくれた。俺はありがとうとごめんなさいをしきりに繰り返すことしかできなかった。部屋に戻り、自分の用意した糞でかい医療セットで治療に取り掛かった。まさか、この医療セットが役に立つ日が来るとはおもわなんだ。そして宿の構造上、虫がいっぱい入ってくるため、夜は蚊にボコボコにされるという憂き目に遭いつつも無事眠ることができたのであった。とはいえこのおかげで、体は傷のせいで、激しく痛み、蚊に大量に刺されたせいか肝臓まで痛むのであった。
翌朝、日本人のやってる店で朝食を食べていると、どうも昨日のことが知れ渡ってるようだ。「宿のおじさんがいい人でよかったね」と言われた。本当にそうだった。無免許で勝手に事故ってしかも弁償せずにすむんだから。今日ピッサヌロークに行くことを告げると、お勧めの店を教えてくれた。そして、宿の主人に心からの感謝の気持ちを表し、新たな目的地に旅立つため、バスターミナルに向かうことにした。同じ宿に泊まっていた日本人たちと一緒に、狭いトラクターみたいなものに乗せられ、送ってもらった。チェンマイに行ってきた人たちだからその情報を聞いておいた。合わせてタイではバスのほうが便利ということをこのとき初めて知った。
さて、ピッサヌローク市内に到着、相変わらずこの地域は雨が酷く、今日も1日中降り続けていた。川は黄濁色の様相を呈し、流れも激しく、川上に浮かぶ一種の家とも言える名物のハウスボートはゆらゆら危険なほど揺らめいていた。
まず、第一の目的は「タイで最も美しい」と言われる仏像が安置されているワット・ヤイを見に行くことであった。時間はある。ゆっくり街中を散策しながら向かうことにした。途中にある寺院に入ろうとしたとき、犬がこっちに向かって思いっきり吠えてくるではないか。しかも、俺の姿を見つけると追い掛け回してくる。こっちは体がきついのに、走って逃げる羽目になって最悪である。とんでもなく情けない光景であった。この旅で犬に追われるのはこれで2度目である。そして、肝心のワット・ヤイに着いた。ここは観光バスも止まり、外国人観光客もそこそこいた。スコタイに向かう途中に立ち寄るツアーが多いのであろうか?あの仏像はというと本当に美しい。その醸し出す荘厳な雰囲気に呑み込まれそうだ。人々が熱心に祈りを捧げる姿を見るにつけ自分がそこにいるのがいたたまれなく思えてくる。宗教の場にいるということをはっきり意識した。でも、この緊迫した雰囲気を激しく気に入っている。美しさに魅せられ30分以上居座ったが、さすがにもう出ることにした。
今朝教えられた店に行こうとしたが全く見つからずあっさり断念。街中を歩き回ることにした。しかし、この街は貴金属店が圧倒的に多く、気軽に入れるような店がない。夜中にナイトバザールが開かれるまではこれといった見所もなく、ひたすら歩き回るのみであった。体に傷を負い、しかも雨の中をなに必死こいて歩いてんだろうか?そんな疑問が沸々と湧いてくるものの、知らない街を探索するのはこれ以上ない楽しみである。歩き疲れて、まだ時間も余っているからこの街では唯一とも言える大きなデパートに入った。そして最上階にある、ゲームセンターで暇を潰すことにした。タイのゲーセンには日本のゲームがかなり混じっている。しかも、そのまま輸入されているのか言語も日本語。そして、ウイニングイレブンというサッカーゲームが流行っているようだ。そして、俺はこのサッカーゲームを所有していて、日本でも相当鍛錬を積んでいた。ひとりでこのゲームで遊んでいると、小学生くらいの男の子が数人寄ってきた。いかにもゲームしたそうな顔をしているので、俺が対戦するかというふうに目配せした。こんなことに限ってはよく通じるようだ。二人の男の子が俺と対戦することにした。相手はフランスを選んできた、こちとら当然日本。まあ、本気出すと圧勝するのは分かりきっているから、ちょっぴり手加減してやるかなと油断していた。ところがどっこいこれがまあ、相手の一人ずつに立て続けに1点ずつ決められ、まさかの敗戦を喫することとなった。悔しいのでもう一度対戦を挑み、今度は徹底的にボコボコにするという大人気ない行為に及んだ。でも、子供たちがシュートをうつたびに俺の顔を見て満面の笑みを浮かべつつ手を使って何か意味不明のポーズを仕掛けてくるのが楽しかったし、俺もノリで切り返した。俺を楽しませてくれたこの子達に感謝の意を表して、ナイトバザールに向かうことにした。
ナイトバザールの見所は空飛ぶ野菜炒めにある。欧米人観光客が、飛んでくる野菜を見事にキャッチしていた。しかし、それでは面白くない。顔面に野菜をぶつけておばけみたいにキモくなってもらわないと。
そしていよいよこの街を旅立つときが来た。駅のプラットホームに立ち親切な駅員さんが手取り足取り俺を助けてくれた。よく思えば、バンコクを出てきてからいい人ばかりに出会ったな。この地域の人々はいい人が多かった。なのに、思いっきり疑ってしまった自分を今さらながら情けなく思った。ゆっくりと列車は出発し、チェンマイに向かって走り出した。
暗がりの中窓の外に目をやりながら、時おり通り過ぎる小さな街を楽しみに見つめていた。そしてタイの列車は道中よく止まる。何をしているのか聞きたいくらいだ。冷房なしの寝台のため窓が開いていた。心地よい風が窓から入り、虫の声に耳を傾けながら、眠りに落ちていくのであった。この日見た夢はなぜかラオスのビエンチャンに行くという夢だった。改めて後悔の気持ちにかられた。
目を覚ますと外はほの明るく、夜明けが迫っているようだった。熱帯特有の木々が茂っているものの、それほど多くない。草原とも森林ともつかぬだだっ広い平原の中をひたすら列車だけが突っ切っていた。周りには何もなかった。
チェンマイに着いた。早朝のためかひんやりしている。まずはこの街に来てからどうするか作戦を立てよう。駅の構内のベンチに座ってガイドブックを広げた。すると、サムローの親父が俺にしつこく付きまとい、宿を斡旋しようとする。全く無視し続けていた。しかし、いざ駅から出て出発しようとすると市内まで入るのに適当な交通手段がない。地方ではソンテウという乗り合いバスを使うようだ。そのソンテウが発車したばかりで、困り者。というわけでさっきの親父のサムロー(人力車)に乗ることにした。とりあえず、市街の移動に便利で起点になりそうなターぺー門まで行けと指示した。しかし、そのターぺー門を明らかに通過した後、別の方向へなお進む。そのまま泳がせておくと予想通り自分とコミッション結んでいる宿に連れて行った。その宿の前で降りると、「約束破りやがったな。金は払わん」と言ってすたすた歩いていった。親父は呆然としながら俺のほうを見つめていた。俺は全く気にしなかった。
チェンマイに来た目的はトレッキングをしたかったから。しかし、まだバイクでこけた傷が治りそうもない。何日か休養してから開始しよう。とはいえ完治するまで待つわけには行かない。今日は静養も兼ねてやや良さげなホテルに泊まることにした。地方はバンコクより宿が安いから助かる。一眠りしてから、街歩きに出ることにした。チェンマイは歩いていて楽しい街だった。これといって特に何かがあるわけでもない。活気があるわけでもない。かといって寂れているわけでもない。そして、この地方は爽快感を感じさせるほどのくっきりした青空が広がっていた。
そしてこの日は市内の有名な寺院をいくらか回った。確かになかなか素晴らしいものであった。とはいえタイに来てからひたすら寺巡りをして多少食傷気味になっていた。
そんななかワット・プラシンでは側に併設されている学校で子供たちが楽しそうにセパタクローで遊んでいるのを、興味深く見学していた。隣にいた欧米人の夫婦もそちらに興味があるようだった。不意にタイ人の少年が俺に話しかけてきた。日本語の勉強をしているらしい。俺の脳内では警報音がグァングァン響き渡り、警戒モードに突入した。「金は払わないからね」と予め宣告しておいた。そう言っておきながら好意で話している人なら激しく激しく失礼な話だなと心の中で思った。15歳の男の子なのに妙にしっかりしていて、大人びていて、そして日本語と英語を勉強しているらしい。そして日本語も英語もなかなかの腕前でないか。日本語はてにをはの助詞をちょくちょく間違えるので訂正しながらも、すごいなぁと感心しまくりであった。しかし、俺も対抗して「俺は英語は当然として、ドイツ語と中国語も学んでるんだぜ」と嘘偽りない事実を言い放った。彼の俺を見つめる眼差しは敬愛のそれへと変わった。しかし、内心は実際に喋ってくれと頼まれないかビクビクものであった。学んでいるのは事実だがドイツ語も中国語も全然しゃべれねぇ。もちろんそんなことはおくびにも出さない。彼はタイの素晴らしさ、自分の住む地方の良さなどを俺に教えてくれ、友達も紹介してくれた。彼らの共通点として、みな爽やかなほどに目をギラギラ輝かせていることであった。希望に満ち溢れた目だった。かれこれ1時間近く雑談していた。こんな暇人旅行者の相手をしてくれて本当にありがとう。気分よく俺は帰って行った。
日も暮れこの街で噂のナイトバザールに行くことにした。第一印象は思ったよりしょぼいなというものであった。とはいえ、売っているものはブランドの海賊物などがありなかなか楽しめるものであった。3日連続でここに訪れることになった。次の日はオカマショーを楽しみその次の日はトレッキングに備えて長袖の上着と、レインコートを調達した。スコタイでお気に入りのサングラスをなくすという憂き目に遭ったので、ここでレイバンの偽サングラスを買った。
この日は昼間会った日本人と再開し、一緒に飯を食うことになった。初めての海外で1週間のタイ旅行だそうだ。バンコクに長居しすぎたので地方にも来ないとと慌てて飛び出したのだそうだ。そして明日のバスで帰り、日本に帰国するらしい。酒も入り彼は自分の旅について思う存分語ってくれた。そして十二分にその旅を楽しんでいるようだった。彼の嬉しそうな顔を見るにつけて俺まで嬉しくなり、気分も弾んだのであった。
次の日、宿を変え、今日はチェンマイ郊外の西、ドイ・ステープ方面に向かうことにした。ソンテウで安く行けるというので乗り場まで行ってみた。ところが他の乗客が一向に集まらず、一人だと500バーツかかるとか言い出した。ガイドブックにはチャーター300バーツと書いていたのでそんなに払う気はさらさらない。誰かが来るのを待ったが一向に来なかった。仕方なく交渉にかかり、1時間以上もかけて、350バーツに下げさせた。出発。なのに、普通に客を拾っていくのはどういうことかね?その人たちは10バーツで済むのに。
この方面のうち一番奥地にある、メオ族の村に着いた。実際はそれほどでもないのだろうが、奥地に入ってきた気分だ。山から見下ろすと、人家がポツポツ点在し、鬱蒼とした森林は、見渡す限り延々と続いていた。曇っているため山の頂上は霧が多い、それが農村にまで侵食しそうだ。こののどかさを味わいながら、村に入っていく。ここは完全に観光地化されていて、土産屋がずらりと並んでいた。観光客はそれほど多くないが。土産を売りつけてくるおばはんたちは必死に声をかけてくる。多少相手をしてみると、値下げ交渉で驚くほど安く物が買えるんだな。妹が土産買えやとメールでうるさかったのでいくつか買ってみた。全て彼らの手作り、伝統工芸とでもいうものだろうか。そして、一人のおばあさんと話していると自分たちはモン族だという。いや、メオ族だろといってもそうじゃないモン族だと繰り返す。あとから聞くところによると、メオ族というのは蔑称らしい。そりゃ嫌がるはずだな。すまんかったと後から詫びても意味がない。そういえばこの民族はチベット系に分類されるそうな。色黒ではあるものの感覚的にはタイ人より日本人のほうが近いだろう。バンコクでもお茶を買ったが、ここでも購入。何か分からないお茶だったが、まあいいだろう。ところで、値段交渉のテクニックはどのようなものを使っているだろうか?いろいろ捻った交渉の仕方を考えるのもなかなか面白い。今回は、「俺は日本のギャングだぜ。ボスにどうしてもお茶を買って来いと命令されてるんだ。頼むから安くしてくれ。そうしないと殺される」と必死に頼み込むと相手はこちらを小馬鹿にしたような表情ながらもOKしてくれた。かなり安くなった。
奥に入っていくと、どこまでも道は続いていく。途中長い階段があるので上っていく。この階段はあまりにも長く途中で何度か引き返そうかと思ったくらいだ。苦労して上まで辿り着くと、今までとは雰囲気が一変した。山中の落ち着いた雰囲気、それと同時に不気味な雰囲気が漂っていた。恐る恐る建物のほうを覗いてみる。不意に人が出てきた。ギクッと驚いたが、よくぞこんなところまで来たなとこちらを暖かく歓待してくれた。ああ、普通観光客はこんなところに来ないのか、あの階段を上るのは相当ハードだもんな。どうやら、3人ほどの僧がここに暮らしているようだ。仏教の寺院らしきものもある。まずはそちらをちょっくら詣でて、その後彼らに接待された。彼らは下に住む少数民族とは違って、普通のタイ人だそうだ。ここいらで、宗教についてのありがたいお話をたっぷりと聞かせていただいた。そして、タイと欧米、日本の宗教に対する考え方の違いなどを教えてくれ、こちらにも質問をしてきた。しかし、この英語を理解するのはなかなか至難の業であるぞ。普段宗教についてほとんど考えたことがなかったので返答に窮する質問が多かった。それにしても、旅先では宗教について考えさせられることが多い。そして、一番年配格の僧が、俺に対して、お菓子やジュースを大量に渡してくれた。おお、なんていい人なんだ、ありがとうと思っていると、ひざまずいて下からその僧に渡せと言うではないか。下界の人間がそうしないと自分たちは物を食べられないという。何か仙人みたいな話だ。とはいえちゃっかりジュースは頂いた。僧たちはここまでの道程よりさらにきつい頂上まで行ってみるかと誘ってきた。しかし、雨も降りそうだし、ソンテウの運転手も待たせているので、長居はできない。俺はそれを断って階段を降りていった。
しばらくすると轟々と大雨が降り出し、そこらじゅう流れる水で歩くのも大変だった。運転手もどこかに避難しているのか見当たらない。しばらく待っていると現れたので出発した。しかし、時間的にプー・ピン宮殿は閉まっていては入れなかった。ワット・ドイ・ステープのほうも雨のせいで見晴らしは全く良くなかった。その点は残念であえなく帰還することとなった。
翌日、怪我も大分マシになり、ようやくトレッキングに参加する決意をした。時間がないから1泊2日である。いくつかの旅行会社を巡ったが、どこも似たような感じだったので、結局宿のツアーに参加することにした。ここでも粘り強い交渉術を使い、相手の骨を折らせた。くれぐれも他人には内緒だぞと念を押された。この日は同時に郊外の温泉にでかけようとした。ところが、途中までしか行けず、そこから先はソンテウのルートじゃないから特別料金が必要だという。ほとんど誰も行かないのであろうか?泣く泣く断念した。この日面白かったことは街中をひたすら歩いていたが同じ人と1日4回も遭遇したこと。相手は男二人組みだが、会うとまたお前かという顔で挨拶をした。そして、夜にはチェンマイで一番大きいデパートに寄った。迷子になりそうなほどだ。ここでの失態はよそ見しながら歩いていたら、通り道の真ん中で寝ている犬を蹴っ飛ばしてしまったことだ。小さい犬だったので気がつかなかった。犬は怒って吠えながらこっちを追いかけてきた。俺は慌てて逃げ出した。ところが、アニメや映画で追われる人が途中地面に倒れこんで全く動けなくなるのと同じように俺も地面に倒れこんでしまった。絶体絶命犬に噛まれるかと思ったが、間一髪飼い主が犬を抱き上げて九死に一生を得た。この旅で犬に追い掛け回されること合計3回、最大のピンチを乗り切ったのであった。
いよいよトレッキングに出発するときが来た。パーティーは8人。日本人二人、俺以外には日本人女1人、韓国人男2人、スイス人女2人、ベルギー人女2人である。女ばっかじゃねかあああ。よく考えると、1泊2日コースってそれほど体力を必要としないコースなんだろうな。屈強な男どもは2泊3日とかに行くってか。そして、ガイドらしき人物はめちゃめちゃ背のちっさい50くらいのおっさんで一応英語は話せるようだが拙い。ガイドというより現地人の引率者という印象だ。気を取り直そう。
まずは、車で郊外まで移動、先に象乗りを体験した。人間の乗る部分は安全性など全く考えられていない代物だし、しかも、平地ではなく山道を登ったり降りたりするのでなかなかスリル満点である。下るときには手で思いっきり支えないと振り落とされそうである。アスレチック感覚で楽しんでいたらダメなんだろう。自分の安全には自分で気を遣わないと命を余裕で落とす。これはこのトレッキング全てにおいて痛感したことだ。そして、象に乗っている間、熱帯特有のわけわかんない虫が大量に寄ってきた。尾の赤い蜂に付きまとわれたりして大変である。とはいえなかなか楽しいひと時であった。
そして歩くという手順だ。タイの鬱蒼としたジャングルの中をひたすら歩く。幅30センチ程度の小道を順に並んで歩いた。とんでもなく蒸し暑い気候のせいか体力が奪われるのが早い。それでも、女の子が多いためかこちとら、ゆるりと歩くのでそれほど苦痛ではなかった。ただ、俺は紺のジャージを履いていたためか、蚊が有り得ないほど寄ってきた。虫除け対策は万全にしていたのでイイヨイイヨーって感じである。しかし、欧米人の女の子はタンクトップにサンダルというトレッキングを舐めてるのかというくらい挑発的なかっこうしていたのでかなり辛そうではあった。2時間ほど歩いて滝の目の前で昼食をとった。しかし、水はほとんど手に入らないから自分で用意しといて正解であった。これはさすがに全員持ってきていた。泥を十二分に含んだ水は雨季のためか水量も多く轟々と音を立て、激しい勢いで流れている。そして水しぶきを上げる滝の側でしばらく涼んでいた。韓国人と話していたが、こいつらの英語力は俺以下であった。聞き取ることが困難だ。なかなか会話が成り立たない。しかし、それでも通じるものである。やはりサッカーの話題は万国共通。世界の人々とのコミュニケーションツールである。そして、彼らは日本のことが大好きだそうだ。
休憩も終わった。もうひとつのパーティーと合流し、結果的に大所帯で行動することになった。ところが出発してすぐに、さっきの滝のすぐ上流の川を横断する羽目になったのである。流れも急で一歩足を滑らせて、流されると地獄へまっさかさまである。まずは、少しでも上流に上ろうとして、左岸を歩いていった。ガイドのおっちゃんの「アブナイ、アブナイ」と日本語での警告を無視して茂みに突っ込むと「いってー」と棘みたいなものにブスブスに刺された。腕に擦り傷できまくりである。しかし、一番の問題はバイクで滑った傷が治ってないことであった。このまま川を渡ると、いかにも変な細菌が潜んでそうな川に傷口を浸すのである。どうしようもなかった。我慢して渡った。沁みるねえ。しかも、見た目以上に流れはきつく足を取られそうだった。全員無事に渡り終えた。みんなに聞いてないよというホトホト感が蔓延していた。しかし、おっちゃんは「アドベンチャー」といってニカッと笑った。俺たちは川口探検隊顔負けの冒険家だぜと心の中で思うことにした。こんな気軽に参加できるツアーでしかも、変な野生動物など一切出てこないようなへっぽこな冒険ではあるが。びしょびしょに下半身が濡れ、靴は重い。しかも、砂利を靴にいっぱい入れ、歩くたびに痛かった。この後も橋の渡してあるところはほとんどなく何度も川渡りをすることになった。
そしてまたひたすらウォーキングである。大所帯で行動するときのコツは常に先頭集団にへばりついていくことである。ある程度後方集団と差が開くと、立ち止まって彼らを待つ。その間休憩ができるのである。逆に後方にいるとほとんど休みがない。もう一人の現地人のあんちゃんは片手に剣を携え、もう一方にパチンコを持つという、まるでゲームみたいな格好をしていた。聞くところによると蛇対策だそうだ。なるほど、常にガイドは蛇が現れないかに気を遣っていた。山もかなり上のほうまであがったところ、ふと、立ち止まってはるかかなたに見下ろせる景色に見とれていると隣の欧米人の女の子が「スウェイ」とか言い出す。なんだろう?と聞くと「スウェイイズビューティフル」だそうだ。そういうふうに言うのか、初めて知った。それにしてもswayでいいのだろうか?いまだに謎だ。意味が分からない。そして、よく木の根っこに引っかかって体勢を崩す俺が笑いのコケにされているのはなんとも不可解な話である。こけなれている俺としては華麗に体勢を立て直す姿をぜひ見て欲しいものだ。
夕方になると勢いよく雨が降り出し、通り道は水が流れ小規模な川と化していた。何度も足を滑らせそうになった。スコールというか予想通りすぐやんだが。そして、日も暮れかけた頃、小さな集落に辿り着いた。よかったよかった。しかし、今夜の宿は完全な掘っ立て小屋であった。ドアもない。開けっぴろげの小屋でただ寝袋だけが用意されていた。ガスも電気もない。ただ水道はあった。日が暮れていくにつれて、気温が下がっていくのが手に取るように分かった。夜は寒くて長袖が必要なほどだった。日本人の女の子と話していると、これがまあ友人Kと同じ出身高校だというのだから驚いた。奇遇というものである。夜は暗がりの中、ろうそくだけを焚いてやや粗末ではあるものの現地の飯を食った。疲れた体にはおいしかった。俺だけ調子に乗って何度もおかわりした。その後、おっちゃんの話を聞かせてもらいゲームをした。そのとき「マイッタ」などという日本語を知っていた。マイッタ、アブナイが彼の知ってる2大日本語のようだ。そしておそらく9時という通常では考えられないような時刻に床に着いた。砂が被り虫もわんさかいたが、まあこの程度だと余裕余裕。ただ、眠っている最中に蟻かなにかに胸の辺りを噛まれたときは叫び声を上げてしまった
ちょうど夜も明ける6時ごろに目を覚ました。いつになく爽やかな朝だった。外に出て、見渡す限りの緑、そして山々の丘陵を遠い目で見つめた。そして、熱帯とは思えない寒さだった。沸かした湯でコーヒーを飲んだ。
今まで触れてこなかったが、今回の旅ではウルトラマンの人形ともつかぬ人差し指にはまる小さなサイズのものを持ち歩きそれとともに写真を撮るという使命を帯びていた。これを人差し指にはめてぶらぶらしていると子供には興味を持たれ、大人には馬鹿にされるという代物だ。今まで何枚かこれを持ってもらって写真を撮ってもらった。そして今日も韓国人が興味深げだったので写真を撮らせてもらった。
朝食を食べ、そして韓国人たちはなぜかもう1泊して別のルートを歩くという。突然の別れを告げた。昨日は気が付かなかったがここはいくつかの民家が集まり集落を形成しているようだ。カレン族の村である。ボロボロの民族衣装を着ている人が多かった。その中にある小さい小学校を見せてもらった。子供たちが楽しそうに遊んでいて、声を掛けると笑顔で振り向いてくれた。こんなところでも英語の勉強をしてるんだと驚いた。ただ、この子達は毎日のように俺みたいなキモイ旅行者の目に晒されているんだろうか?そして見せ物にされているのか?とふとそんなことを考えて哀れになった。
村を出てひたすら徒歩である。山をいくつか越え、2,3の集落を通り越し、湿度が異常なまでに高く、体力が必要以上に奪われていく。ジャングルをひたすら歩きときどき直面する沢を跳び越す。ただ、欧米人は湿気にもっと弱いらしくへとへとである。彼らがとろとろ歩く分こっちには楽だった。ある山の頂上までたどり着くと彼方まで見渡せ、いくつか点在する家々や緑の映える田んぼという風景が存在していた。すぐ近くに存在するのに、自分の手に届きそうもなく、逆に触れてはいけないように思える。そこに住む人々の生活の息吹を確かめたい。でも、近づくとまるで陽炎のように遠ざかっていきそうだ。この一見なんでもない光景を心に留めておき、そしてなぜか元気がわき疲れた体が回復したような気がした。そしてふと気がつくと、置いてきぼりにされていて慌てて尻を追いかけるように走り出した。
このトレッキング最後のイベントとして筏下りが残されていた。ポツポツ雨が降り出し始めていたのでレインコートを着けた。俺の筏には渡しが1人、客3人である。真ん中に2人座れるように少し段があり、俺以外の2人が座った。そして、俺はその後ろで立ちながらバランスを取る羽目になった。筏下りはまるでジャングルクルーズのような体感だった。頭上に木の枝やらなんやらがどんどん迫ってくるので抜群の反射神経と運動神経でこれを回避する。しかし、前の二人が手で払いのけた枝が跳ねてこっちに当たるのはどうしようもなかった。ベシッと音が鳴ってかなり痛かった。そんなこんなで途中いったん降りて歩かされたり、落ちそうになったりしながらも、川に転落という事態は回避できた。なかなかスリル満点で面白かったのである。ただ、日本人の女の子は川に落ちてびしょ濡れになっていたので少々かわいそうだった。あと、屈強な欧米人の男が勝ち誇ったように腕を上げて帰ってきたのに、体はびしょ濡れになっていたのが笑えた。
無事チェンマイに帰ることができ、体は疲れているもののこの日のバスでバンコクに戻ることにした。しかし、タイは道路がよく整備されていてものすごいスピードでバスは飛ばす。しかも乗り心地も抜群にいい。料金も安く、タイは列車よりもバスのほうが発達した国なんだと認識した。途中止まったとき、ただの休憩かと思ったら隣のおっちゃんがジェスチャーで飯を食うんだと教えてくれた。こんな時間に飯か。しかもおかゆだ。英語がさっぱり通じないからバスの発車時刻を聞きだすのにも苦労した。
そしていよいよバンコクが近づいてきた。まだ夜も明けていないが、時々大きなビルが通り過ぎていき、やはりバンコクが飛び抜けた大都会だということを改めて認識させられる。到着し、バスターミナルに着くとやはりここも鉄道駅よりはるかに巨大だ。タクシーを使うのも癪だから、公営バスで市内に入ろうとした。しかし、目的の番号のバスがなかなか来ない。仕方なく違うのに乗ったら、カオサンから4キロくらい離された地点で下ろされバックパックを背負って歩くのはめちゃめちゃきつかった。無事に宿を取り、今日はカンボジアに行く準備に取り掛かる。
この日の夜、何気なく夜道を歩いていたら、おかまとも女ともつかぬ奴が話しかけてきた。やれやれ、このレベルアップした俺の相手しようなんざいい度胸してんじゃねえか。どっからでもかかってこいやというぐらい今の俺は鍛えられてパワーアップしていた。なんでも、鞄をごっそり盗まれてパスポートもなくしたからどうしようもない。夜中だからシンガポール大使館が閉まっているから行けないだとよ。プーケットにはママが迎えに来てくれる。だから、バス代くれ。今まで日本人と行動していて知り合いがいるからここに電話したら、証言してくれると電話番号書いた紙よこした。しかも涙を流して真剣な表情で訴えかけてくる。泊まるところもない。飯も食えない。だから金を貸してくれ、必ず返す。んなもんお前にくれてやる金なんてねえよと言っても、なかなかあきらめない。とりあえず一緒にご飯でも食いませんかと誘ってくる。あとから振り返るとうそくせーで済ませられるがその時はどうもマジだったらどうしようなどと思ってしまう。まあ、もっと人のいい奴をあたれやってことで手を振り払って逃げ出した。
カンボジアからまたバンコクに戻ってきて最後の3日間はバンコクで過ごすことにした。総滞在日数13日と長居したものだ。そしてこの時点では完全に金が尽きて遊べなかった。だからひたすら街中を歩き回ることにした。誰も観光客の行かないようなところをほてほて無意味に歩いていた。でも、それが楽しかった。チャオプラヤー川沿いもゆっくりと歩き回った。そしていよいよ終わりゆく旅をゆっくりとかみしめた。
最後の1日は友人Kと再会することとなった。彼の覚えたマッサージ技術をさっそく俺に応用してもらった。タイマッサージは何度やっても心地よい。そして、これといっていくところがないというのでバンコク科学博物館に行くことにした。ところがこれがとんだ食わせ物で、博物館としての体をほとんどなしていないのである。いるのも社会見学か何か知らんがで来ている小学生のみ。入場するのすら苦労させられ、外国人の男二人が遊びに行くととんでもなく浮いていた。おまけに係員の男がはしゃいでる子供に蹴りをかますという信じられない光景を目の当たりにし、思わず吹き出してしまった。とどめは、プラネタリームに入ろうと扉を開けると、中はがらんとしていてパイプなどが張り巡らしてあり、もうどうしようもない状況であった。ここまで最悪な博物館も初めてだ。最後の日にこんなところに行くことになろうとは。
いよいよ帰国のときも迫り、友人に別れを告げた。残る難敵は往路のとき泣かされたエアインディアのみである。バンコク国際空港にたどり着き、無事チェックイン。そのときスコタイのときに会った人に再会した。飛行機は深夜に飛び立つ。行きと違って満席で機体も驚くほど普通だった。バンコクを飛び立ちいよいよ日本に向かう。一眠りした後に目を覚ますともう夜は明け暗闇から抜け出していた。澄み渡った青空の中、雲の上を飛び朝日が眩しかった。そして成田に到着した。
日本は9月も半ばでもう涼しかった。そして帰ってきたときの感想は静かな国だなあと。喧騒のバンコクから比べると何もかも静かで落ち着いていた。そしてその機能美に改めて驚いた。もう道路を渡るときにダッシュすることもないんだなと少し悲しくなった。疲れがどっと込み上げてきた。どこか夢の世界を旅してきたような気分で家に戻ったのであった。
私は実質たった3日間しか、しかもバンコクにしか滞在していないのでタイの何が分かる??といった感じがする。でも、今までヨーロッパなどの西洋文化圏にしか行ったことのなかった私にとって、タイはアジアの力を感じるには十分だった気がする。本当に、たった3日間ではタイの魅力を満喫できていないと思う。が、バンコクから様々な地方への飛行機が発着しているのでいつかまた行くことはできるだろう。そのとき、さらに深くタイのことを知れたらいいな、と思います。
バンコクに到着したのは夜中の12時。空港まで現地の旅行社の人が迎えに来てくれていたので、彼の車でバンコクの中心駅フォアランポーン近くのバンコクセンターホテルへと向かった。このとき驚いたのはバンコクの町の明るさ!空港から市内へは高速で結構走るのだが、その間町の明かりが途切れることはない。また、道路わきの看板も日本と同じメーカーのものが多く、また見慣れたコンビニの看板も見えるため、もしも目隠しされてここまで来たら日本の地方都市と間違えるだろう。タイは遅れた、発展途上国だというイメージしか持っていなかった私はとても驚いた。ホテルも、日本のビジネスホテルより広いし、クーラーがあるからヨーロッパのホテルより断然快適。
私が観光したのはバンコクだけだが、これは他の部員達が面白い旅行記を書いている。それに私より断然ためになる。では、私は何を書けばいいんだろう…と思っていると、アユタヤについて書いた部員がいない。ということで、アユタヤについて書きます。
私達は4泊5日のフリープランのツアーを利用した。旅行予定が短い場合、こういうツアーを利用したほうがトータルで安くなることもある。今回の日程は、1日目深夜に到着し、二日目はツアーで(といっても私達二人とガイドの三人連れ)王宮や水上観光をし、三日目四日目は終日自由だった。そこで三日目はアユタヤを訪れることにした。
アユタヤはバンコクから電車で2時間弱のところにある。世界史を学んだ人ならアユタヤ朝というタイの王朝を耳にしただろう。また、山田長政の日本人町でも有名。3時間ほどで全て見られるのでバンコクからの日帰りも可能だ
私たちは早朝8時の電車でアユタヤを目指した。が、8時に来るはずの電車が来ない。何のアナウンスもないまま、結局40分遅れて電車は到着、出発は何分遅れたのだろうか。この電車は空港を経由しているが、空港に向かう人は焦ったのではないだろうか。それとも、空港に行く人は電車を利用しないのが普通なのだろうか。そんなことをのんびり考えていた。
電車の中は本当にのんびりしていた。結構混んでいて、5時ごろの中央線といった感じ(分からない人、ごめんなさい)隣の男の子はHANAMIと書かれたかっぱえびせんを食べている。このHANAMIはこっちではよく売られていた。HANABIではなくHANAMIなあたりがポイントだと思う。あと、電車のシートが布ではなくプラスチックで、痛かった。
アユタヤ駅を出るとすぐ川がある。それを船で渡り、ぶらぶら歩いているとトゥクトゥクの運転手に声をかけられた。「ここから中心地まで歩くのは遠すぎるし、歩いてアユタヤを観光するのは無理だ。ひとまずトゥクトゥクに乗って中心地まで行くのがいいよ」という。が、私はバスを利用しようと思っていたから半ば無視するように断った。そうすると、いくらでもいいから乗れ、と言ってくる。そこで、相場が分からないから一人5バーツで乗ることにした(あとで歩き方を見たら20バーツが相場、と書いてあった。本当の相場はいくらくらいなんだろう?)。すると今度は1時間200バーツ、アユタヤは3時間でまわれるから1日600バーツでトゥクトゥクをチャーターしないか、と交渉してきた。ここでも相場が分からないから困った顔をしていると、「学生だから割り引こう」といって1日400バーツにまで値下げしてくれた。たぶん、トゥクトゥクを利用するのが一番いいと思う。
いまだに名前を覚えられないが、私が見たアユタヤの遺跡を行った順にあげるとワットヤイチャイモンコン、ワットバナンチューン(これは有名か分からない。歩き方にも名前しか載っていない)、ワットプラマハタート、ワットラーチャープラナ、王宮跡、ワットプラシーサンペット、ワットロカヤスタ、ワットチャイワッタナラーム、ワットプーカオトーンとなる。一言で言ってしまえば廃墟である。だが、広がる田園風景の中の一角に頭の取れた(とられた?)仏像が並んでいる姿はとてもさみしかった。塔の途中まで階段で上れるが、そこから見た景色が印象的だ。一番のおすすめは、ワットプーカオトーン。かなり高いところまで上れて、アユタヤを見渡せる。人も少ないし、のんびりできます。
最後までトゥクトゥクにだまされていないか不安で、おじさんを疑いまくったけど、結局はとてもいい人だった。400バーツぴったり、おつりまで出してくれた。アユタヤ駅からバンコクに戻る電車は時間通りに来た。なんで始発が遅れて、途中駅では時間通りなんだろう?
旅といったらごはん!ということで、バンコクにはとても期待していきました。おいしいごはんが屋台で安く食べられる、これって幸せな事だよね。本当においしくて、安いし、そんなに多くないからすぐおなかが空く
私が行った屋台はたいてい手書きの日本語メニューがついていて、わかりやすかった。けど分からないときも人が食べてるのを指差せば出してくれた。タイ米のぱさぱさ感、上にかける炒め物の味、全て私の口にはあってて最高。その中で一番おいしかったのはチャイナタウンで食べた炒め物をかけた麺。麺は太い!日本の稲庭うどんとかきしめんとかの比じゃない。短くて、色は真っ白でもちもちしている。それに屋台風の炒め物が乗っている。この上に乾燥したおかかのようなものがのっているのだけれど、その中に乾燥した花と豆腐の細かく切ったものが入っている。この二つがおいしかった!しかも15バーツと安い。小さな女の子(どうみても私と同じくらいか、それ以下。10歳くらいの子もいるように見えた)が全てまかなっていて驚いた。
最初に書いたとおり、バンコクは思った以上に現代の町だった。サイアムスクエアーやMBKのような、若者向けデパートが建ち並ぶ一帯、官庁街は日本と同様だ。車も当たり前のように走る。が、一歩裏通りに入ると私が想像していた狭い路地、地面や外に出た椅子に一日中座っている人、という発展途上の顔も見せる。パワフルなトゥクトゥクや、車を気にせず道路を渡る人もいれば、道端で物を売るでもなく何もせずにたたずんでいる人もいる(彼らはどうやって生計を立てているのだろう?)ここら辺がタイの魅力なのかもしれない。また彼らを見に、おいしいものを食べに、タイに行きたいなーとおもいます。