交響曲第一番ニ長調 / マーラー
いつの時代の、どの国の音楽なのか。彼の曲ほどこのことについて簡潔な答えを出すことが難しいものはないだろう。いかなる作曲家も、マーラーほど、十九世紀と二十世紀のいづれをも与にしている者はなかった。彼は最後まで調性を守った作曲家として留まったが、無調性音楽の初期の試みに立ち会ったし、とにかく、この試みは彼自身の作品の手本なしには世に現れることはなかったろう。
また彼は自分の国籍についてはこう話している。「私は三重の無国籍者なのだ!オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界中ではユダヤ人として。どこでも無理に押し入ったものであり、どこでも歓迎されたことはなかった!」
天才的な指揮者であり、作曲家でもあったマーラーは、そのいづれの才能も決して対立するものではないことを同時代者に認めさせようと戦わねばならなかった。親しみやすい旋律作家であり、歌曲の巨匠であったマーラーには、交響曲の規模の大きな構造、その複雑さを手掛けるなんらの才能も拒まれているように見えた。生涯、マーラーはこの一見和解しがたいジャンルの総合を熱心に追い求めた。ところが彼の時代には、「交響曲にちっちゃい歌がすしづめ」とまで非難されてしまうのである。
「リヒャルト・シュトラウスの時代が終わり、やがて私の時代がくる!」マーラーは自らに自信を抱いており、差し迫ったものに対しては大いなる幻影を抱くこともなかったが、急いではいなかったのだ。
彼の交響曲の原点とも言える『第一交響曲』は―本来「花の章」を含む五楽章構成の「交響詩」であったが、のちに四楽章制に改められた―、これ一つで完結するものではない。『さすらう若人の歌』は『第一交響曲』への序文的性格を帯びているし、『第二交響曲』は《真の、より高次の解決》とみなすことができる。彼の制作過程には連続性がみられ、「ベートーヴェンは、ただ一曲の第九しか書かなかったが、しかし彼の交響曲はいずれも《一曲の第九である》。」という言葉からもマーラーの根本にある作曲原理が伺える。
マーラーは後にこの第一交響曲に「巨人」という標題を与えたが、結局は削除してしまった。文献では依然として、ジャン=パウルの同名の小説とつながりをもっているという説が絶えない。マーラーはジャン=パウルの作品の愛読者であったことは事実であり、小説「巨人」を読んでいなければこの標題をつけることもなかったかもしれない。しかし小説の内容と第一交響曲の関係性を見出すことは難しく、誤解を生むことを避けるためにも彼自身が標題を引っ込めたのである。彼と親しかった歌手・ヴィオラ奏者のナターリェ・バウアー=レヒナーは回想録の中で、マーラーがこの曲を書きつつ思い描いていたものは《一人の力に満ち溢れた英雄的な人間》であり、その生涯と苦悩、格闘と敗北だったと述べている。
第一楽章 緩やかに重々しく、自然の音のように
Langsam. Schleppend. Wie ein Naturlaut
弦楽器の長いイ音で始まり、霧のかかった幻想的な世界へと導く。その持続音の上でオーボエ・ファゴットが四度下降の特徴的な動機(譜例1)を繰り出し、次いでクラリネットが遠くから聞こえるようなファンファーレを奏する。
冒頭の四度の動機は郭公の鳴き声を象徴したものであり、自然の静けさが繰り広げられている。この四度の動機は、単にこの序奏ばかりでなく、第一楽章をはじめ全曲の主要な動機や主題を生成し、全体の関連に役立っている。それとは対比をなす半音階的な動機がまもなく低音弦に現れる。これを扱いながらニ長調に転じ、チェロに第一主題(譜例2)が浮かび上がる。
これは前述の『さすらう若人の歌』の第二曲「今朝、野を超えていくと」の主題と同じもので、カノン風に扱われている。第二主題はイ長調で木管が奏し、第一主題の対位旋律に対応する。展開部に入ると、曲は序奏の雰囲気に近づき、静寂に戻る。ホルンの柔和な響きが終わると再び第一、第二主題が繰り出され、これまでの動機を扱いながら、トランペットのファンファーレとともに曲は展開のクライマックスを迎える。再現部では以後呈示部の通りに進み、ティンパニの四度動機の強烈な響きとともに突然終結する。
第二楽章 力強く動いて、けれどもあまり速くならぬよう
Kräftig bewegt, doch nicht zu schnell
第一楽章で自然と個人が扱われた後、第二楽章ではあらためて、レントラー舞曲の書法により人々の生の充実を表現する。低音弦による力強いオスティナートから始まり、その上でヴァイオリンとヴィオラが八度飛躍の動機を繰り返し和声を充実させる。そこに管が加わり、初めて旋律的なはっきりした線を示すようになる。中間部では、第二ヴァイオリンとヴィオラのオスティナートの上に管楽器も加わり、熱狂してゆくとコントラバスとチューバの五度に乗ってヴァイオリンと木管が新たな旋律を奏でる。その後転調を経て頂点が築かれ、長いトリルに続く強烈なイ長調の和音、息を抜くような休止、ホルンの消えるような穏やかな響きを経て、曲はヘ長調の牧歌的なトリオに入る。ト長調に転じると、木管と弦で新たな旋律が示されるが、ふたたびホルンの呼び声で第三部へと進む。管の長いトリルで頂点を迎え、力強い和音で曲は終わる。
第三楽章 緩慢ことなく、荘重に威厳をもって
Feierlich und gemessen, ohne zu schleppen
この世が無関心に放置するものに哀悼を捧げてやまぬ、嘆き悲しむ者の姿を映し出す。ティンパニの四度動機に乗って、フランス民謡の旋律がコントラバス・ソロによって奏される。こうした楽器の選択がすでに、一歩距離を置いた、皮肉な印象をつくり出す。オーボエとトランペットによりユダヤの民族音楽が提示されたあと、ボヘミアの楽隊のような音楽が続く。中間部にはふたたび『さすらう若人の歌』からの引用、「道端に菩提樹が立ち」の旋律が現れる。これは墓地のイメージを喚起する。すると「卑俗な」吹奏楽が出現するが、すぐに静寂へと戻り、四度動機を出しながら、この楽章は終わる。
第四楽章 嵐のように激しく揺れ動いて
Stürmisch bewegt
終楽章はハンブルク初演の際では「深く傷ついた心の突然の表現」という表題であったが、この交響曲の究極目標であることは一度聴けばわかるだろう。第三楽章とアタッカで結ばれたフィナーレ楽章の開始で、英雄はうちひしがれ、叫び声をあげる。なだれ落ちるような三連符と半音階下降(譜例3)は地獄を表し、激しい反抗で立ち上がるかのように強烈で情熱的に全楽器で奏され、序に相当する部分がかなり続く。
頂点では「精力的に」と指定された部分にはいり、第一主題の呈示部となる。その後この主題が様々な楽器であらわされ、ヘ短調で情熱をぶちまけた後、静寂が訪れる。第二部は弦の美しい第二主題で始まり、第一部の混沌とした世界から一転、幻想的な、安らぎの情景が映し出される。これが終わると、低音弦が三連符をもつ音形を繰り返すうえで、クラリネットが第一楽章の四度動機を思い出のように示す。曲はト短調に入り再び速度を速め、ピッコロとフルート、弦の半音階的な音形が嵐のように鳴り響く。第三部では、ホルンが第一楽章の最初の四度動機により自然の力を示し、自然の勝利、人間の敗北を暗示する。今度は第二主題とそれに関連した柔和な響きがチェロとヴァイオリンによって奏でられ、木管にも扱われる。
その後諦められないかのように再び第一主題が現れ、「最高度の力で」と指定された強烈この上ない結尾に達する。若人の意気を示すかのように序の断片を出したのち、いつしか、勝利を確信したかのように序の半音階下降は上昇音形へと変わり、最後に、力強くニ長調で終わりを告げる。