交響曲ニ短調/フランク


メインプログラムは、現在のベルギーに生まれフランスで活躍した作曲家セザール・フランク(1822~1890)の交響曲ニ短調である。
フランス、ベルギー。きっと多くの人が、観光地を思い浮かべるだろう。エッフェル塔や凱旋門に代表される花の都パリ、セーヌ川の穏やかな流れ、一面に小麦畑が広がる田園地帯、地方随所に点在する古城…。ヨーロッパの華やかさを象徴する地域だ。
しかし、この曲はそういった華やかさとは程遠い。曲は、中低音の重々しい感触の動機から始まるのだ。ベートーヴェン以来の「暗から明へ」を基調としており、最後には燦然と輝く希望に満ちた音楽になるのだが、その気配は冒頭にはない。
 なぜこうした音楽が、華やかな土地柄から生まれるのか。最初は耳を疑うかもしれない。ここで彼の生い立ちと人柄をみてみよう。

 フランクの人生は決して多幸とは言えない。彼はベルギーの古都・リエージュに生まれ、演奏家として育てたい父の意向でパリに移って厚い音楽教育を受けるが、作曲家を志したことで父と対立し、若くして父と絶縁する。
 その後は作曲に専念するも芳しい評価は得られず、教会のオルガン奏者として生計を立てる。この職での活躍により、パリ音楽院のオルガン科教授に採用された。ここで彼は作曲も教え、その熱心な指導により、フランクを師と仰ぐ弟子たちのコミュニティが成立する。しかし作曲家としては依然として無名であり、師の評価を向上させようと奔走する弟子らに背中を押されてようやく作曲家としての自信を深め、積極的に創作に励むのである。
 当時オペラや歌曲ばかりが賞揚されるフランスにおいて、管弦楽曲や器楽曲の再興を試みる「国民音楽協会」が設立されると、彼はその創立メンバーに加わる(後に主宰)。ここでの活動の一つの到達点として、彼は交響曲の作曲を構想する。1886年、協会の中心だったサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付」やフランクの弟子のダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」が好評を博すと、彼の作曲欲は一層強まった。彼の事実上唯一の交響曲は、こうした刺激を受けて完成されたのである。

〜交響曲ニ短調〜
 フランクは自ら研究していたバッハやベートーヴェンの影響で堅固な作風だった一方、同時代のリストやワーグナーの影響も受けている。それがこの曲に最も色濃く表れているのが、循環形式というもので、第一楽章で提示される2つと第二楽章で奏でられる1つの、合わせて3つの循環動機が全曲を組み上げていく。

◇第一楽章 Lento; Allegro ma non troppo.
 曲は中低弦によって奏でられる、ほの暗く神秘的な3音からなる動機(D-Cis-F)によって始まる。これはベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番などにも登場する動機で、第一の循環動機である。
やがて曲はこの動機を軸として激しさを増すが、長くは続かず、全合奏によるのびのびとした印象の動機が登場する。これが第二の循環動機である。しかし、この喜びに満ちた音楽も長続きしない。音楽は第一と第二の循環動機を軸に展開され、フルオーケストラによる第一循環主題の強奏によって力強く閉じられる。

◇第二楽章 Allegretto
 一般的な交響曲の緩徐楽章とスケルツォ楽章を一つにまとめた楽章である。
冒頭に弦楽器のピチカートで奏でられる音形をもとに、コーラングレによって物憂げな旋律が歌われる。この動機(Ges-F-B-A-F)は、この曲を形作る3つ目の循環動機である。この古雅な旋律に他の楽器が加わって次第に盛り上がったのち、ヴァイオリンが新しい旋律を出す。第二循環主題を変容させたこの旋律は、まるで雲間から光が差し込んでくるかのような、幻想的な旋律である。この後、この旋律と第三循環主題とが組み合わされ、楽章は締めくくられる。

◇第三楽章 Finale: Allegro non troppo
 明るさと陰鬱さが交錯するフィナーレである。
弦楽器の力強いトレモロ風の運動に始まり、ファゴットとチェロの軽快な旋律が現れる。第二循環主題を変化させたこの明るい旋律が、この楽章の主軸を担う。しばらくするとトランペットらによって、ワーグナー風の新たな旋律が奏でられる。こうして明るく豊かな音楽が続くのだが、やがてチェロとコントラバスによって重々しさに塗り替えられ、さらに第二楽章の哀しい旋律が呼び戻されて、曲は再び憂愁の色を帯びてしまう。これ以降、曲は第一楽章から登場したあらゆる旋律・動機を組み合わせ、複雑に、しかし一本の筋を通しつつ展開していく。曲はこの楽章の前半に登場した明るい主題がフルオーケストラによって燦然と奏でられ、歓喜の頂上に達して閉じる。

 完成は1888年、時にフランク66歳。父との義絶、長い不遇、こうした決して多幸とは言えない人生の総決算に、彼は各ジャンルに1つずつ、狙いすましたかのように傑作を生み落していった。この作品はまさしくフランクの持てる力を全て注ぎ込んだ最高傑作だといえるだろう。
 初演時の聴衆の反応は冷淡だったが、彼は満足したと伝えられる。フランス交響楽・純器楽曲の復活という自らの理念が実を結んだからであろう。
彼は僅か2年後に亡くなるが、遺志は弟子たちに受け継がれ、フランス音楽の一つの潮流を生み出した。心無い人は彼を、理論ばかりでロマンの欠片もないと評するが、万人受けする軽妙なオペラだけがロマンではない。自らの理想を追うのもまたロマンであり、そういう意味で彼もまた夢にあふれた男であった。