12月クラブ通信 平成11年(1999)12月号 第103号

   天才作曲家・江文也(こうぶんや
                          5組張漢卿(トロント)
先日日本から宅急便で小包が届いた。
開けて見たら白水社の新刊本『まぼろしの五線譜・江文也という「日本人」』という表題。
著者井田敏氏からの贈り物である。井田氏とはアトランタのオリンピッ会場で出会った時、「戦前のベルリン・オリンピック(1936)には、音楽部門のコンテストがあって、江文也という台湾出身者が日本人として参加、銅メダルを獲得した」と語ったことから、井田氏はその後、厖大な資料を収集し、日本各地、台湾及び北京をとびまわって3年がかりでこの本の刊行にこぎつけたのである。
 江文也(1910〜1983)は台北の田舎に生まれ、北京で歿した。長野県立上田中学校に入学、続いて東京高等商工(武蔵高等工業)に入学して上京。専門は電気科。
しかしエンジニアよりも音楽家を志して、東京音楽学校お茶の水分校で作曲を学び始める(19歳)。こうして1932年武蔵高工を卒業するとともに、生活の為に日本コロンビアと契約して歌手としてスタート、翌’33年結婚。また、東京音楽学校選科作曲料に入学するのである。
かたわらJOAKのオペラ「タンホイザ」で主役ボルフラムを歌ったり、藤原義江と共演したりして、苦労しながらもこつこつと作曲にはげんだとのことです。
前記の
ベルリン・オリンピックの芸術競技(音楽)には、日本から5点の交響曲作品が應募しながら、弱冠26歳、しかも工科出身の外地人の作品だけが入賞(一等ドイツ人、二等オーストリア人、イタリア人各一人、三等(なし)、四等江文也)したのですから、当時の音楽界の反響には、かなり微妙なものがあったと思います。
彼の入
賞作「台湾の舞曲」はその後、名指揮者レオポルド・ストコフスキーの眼にとまりフィラデルフィア交響楽団を指揮してビクター・レコードに吹きこまれた程ですから、聴きごたえのある作品だったことは疑いありません。
その後文也は管弦楽、ピアノ、声楽など多数の作曲をします。
島崎藤村の詩集「潮音」から合唱曲を作曲したりし、李香蘭主演映画「蘇州の夜」の音楽を作曲したりして、生活をたてていくのですが、いっまでたっても「よそものあつかい」の環境に堪えかねて中国大陸に1938年(昭和13年)に家族とともに移るのです。
北京師範大学・音楽系教授となり、門下生から多数の中国作曲家を誕生させました。
こうして暫らくは平和な生活が続いたのですが、第二次大戦後は国民党政府の治下になるとともに、日本軍部に協力したとして「文化漢奸」に指定され入獄10カ月(1945年)。翌1946年、大陸は中国共産党の治下となり、文化大革命のインテリ弾圧を喰って「分離
主義者」として批判される苦難を強いられたのである。民族の歴史・文化のルーツを探して中国に渡った文也が、果して幸福であったかどうか、今では知る由もなくなりました。
 20世紀の前半は、我々が若き日をすごした時代であったが、あの頃の社会では、身分の上下とか「内」と「外」の隔てとか、評判の良し悪しとか、よきにつけ、あしきにつけて、制約が多かったと記憶しております。
江文也夫妻はそういう制約に失望せず、自らの信ずる道に強く生き抜いた人と言うべきでありましょう。
 21世紀もあと幾日というところまで来ました。
古い社会の制約が一つ一つ消えてゆく中で21世紀の若い人達は、この本にえがかれた人物の心境をどういう風にとらえるものであろうか、とつい考えこみました。   (トロントより)

「江文也」追記
9月14日神田カザルスホールで「魅惑の声シリーズ」(主催・日本経済新聞社)の演奏があり、
江文也の作曲の「台湾舞曲」及び「生蕃四歌曲集」が演奏された。
「台湾舞曲」はピアノ斉藤京子さんの演奏で大好評であった。
「生蕃四歌曲集」は独唱藍田由美、伴奏斉藤京子さんで演奏され盛んな拍手があった。

同演奏会のプログラムの中の解説の一部を摘録してみよう。
1934年の音楽コンクール作曲部門で「南の嶋に據る交響的スケッチ」が第2位となり、その第2楽章の「城内の夜」を改稿し、
1936年のベルリン・オリンピック芸術競技音楽部門に出品、第4位を得たのが「台湾舞曲」で、神秘的な物語性を帯び、構造としてはソナタ形式をふまえた一種の音詩となっている。
作曲者が曲に付し
た文章を次に掲げる。
 『私はそこに華麗を尽くした殿堂を見た。荘厳を極めた楼閣を見た。深い森に囲まれた演芸場や祖廟を見た。
しかし、これらのものはもう終りを告げた。
これらはみな霊となって微妙なる空間に融け込んで幻想が消え失せるように、神と子の寵愛をほしいままに一身に集めたこれ
らは、脱穀のように闇に浮かんでいた。ああ、私はそこに引き潮に残るニッ三ツの泡末のある風景を見た』