小平一橋寮の想い出
                           4組 阿波博康(西宮)
 
 遠い大連一中から同期生の中世古清忠、中上博の両君と一緒に予料に入学し、初めて日本での生活を始めたのが、小平の一橋寮であった。
 中世古君は小生と同じ西郡ニューギニアに出征しながらお互いに任地も知らぬまゝ現地で戦死された。中上君は在学中に病死され残念でならない。
 小生の予科時代は1年と3年を一橋寮で過ごし、予科の想い出は即一橋寮のそれと言ってもいいぐらいである。 しかし随分古い事でメモも無く、これと言った纏った話しも出来ないが、夜遅くまで皆と駄弁り明かしたこと、娯楽室に親しみ過ぎて試験前に慌てたこと、よくしたものでそれを誰かが助けてくれたこと、よく散歩して見渡した古い武蔵野の檪林や多摩川上水脇の小道等が今も想い出される。
 中学の時は肋膜炎で体操も教練も実技免除だったが、予科一年の頃、ポートのクラスチャンのメンバーに選ばれ、若さと怖いもの知らずで、毎日小平の寮から向島の艇庫に通い練習に励んだ結果幸いにも優勝し、そのままポ一卜部に入り予科3年間をボ−ト部生活に終始した。
 心配した身体の方も何という事もなく、予科、学部はもとより軍隊生活でも普通以上の健康に恵まれ、若い内に無茶をしたのが却って良かったようで、と我ながら呆れている。学部繰り上げ卒業後不足分を補う様に軍隊で経理部幹部候補生となり、多摩電「商大予科前」駅の反対側の陸軍経理学杖に入ったら、一橋の同期生が沢山居て違和感は無かったが、駅の向うと、こちらでこれ程も自由度が違うものかと一橋の生活を懐かしく思った。
 
 卒業以来一度も予科を訪ねていないが、先般の如水会報で解体前の小平訪問記を読むと建物は殆んど昔の侭だが白亜では無く、中庭も草叢で荒れ果て昔の面影も無い由で残念である。
 一橋寮には2年間世話になったが、後半の予科三年の時の北寮16号室の生活が特に懐かしく、同室の6人は皆既に75才を過ぎているが、夫々に揃って元気で居るのは珍らしいのではないかと誇りに思い、二、三年に一度は如水会館等で会い、昔の想い出話に花を咲かし、何時までも元気で集まれる様願っている。