彦根高商時代の思い出
  
                                7組 佐田健造
 
 彦根高商出身は吉林登喜雄君と私の2人だけなので代表して私が書くこととなった。
 彦根高商は大正12年(1923年)4月の創立で、本年で74周年(現在の滋賀大学経済学部)となる。当時の滋賀県には官立の高等専門学校は一つもなかったので、県下の最高学府となったものである。終戦後、学制改革によって彦根高商を中核として滋賀大学が設立され、旧高商はその経済学部となった。
 彦根高商の特色として特筆することはさしてないが、校歌(藤村作詩)によって学校の教育方針などが推考される。校歌、校風のポイントは三点である。その@漫々たる水を湛えた風光明媚な琵琶湖を自然の友とし、A黒船来航の国難を、日米修好通商條約など長年にわたる鎖国政策を破っての開国政策によって救い身命を捧げた大老井伊直弼(なおすけ)を師とし、B不屈の商魂--近江商人、不滅の正心-−近江聖人(中江藤樹)を軌範として歩むようにと諭している。
 高商の本科の定員は--学年150名で、一年生の時は原則として寮に入り、自宅から通学できる者は自宅からの通学を許された。二年生になると寮生は全員寮を出て下宿した。私自身は自宅が近江八幡(彦根から6つ目の駅で20分)なので汽車通学をしたし、二年生の冬などは彦根市内に下宿をした。 一年生の組別は中学卒がA・Bの2組(各組は50名)、商業卒がC組となり、二年生以降は中学卒、商業卒双方が入り混って組分けされた。一年の時吉林君はB組で、私はC組であった。一年生のA、B組は商事要綱、簿記、珠算などの課目があり、C組は国漢、自然科学、数学などの課目の時間配分が多かった。国漢は商業学校でも習得していたが、古事記、日本書記、万葉集等を特に習った。自然科学は担当教授のフリーな講義で、医学的なものとして血液型の講義とか梅毒の歴史などがあり、化学では化学肥料や爆薬の製造の歴史があった。数学では確率論や微分積分を教わった。二年生以降は中学卒、商業卒の区分はなくなり一緒になった。二年からゼミナールがあり、吉林君と私は山下勝治教授の会計学のゼミに入ったのであった。
 校舎は市の東部彦根城のやや南々西にあり、琵琶湖畔までは西方一粁の位置である。湖畔へ行けば眺望はよい。この辺は湖の最も巾の広い処で、春は霞がかって対岸が見えなくて海の様の感じがするし、秋は空気が澄んで対岸はもとより比良連峰から遠く比叡山まで望め、冬には東の万に白雪に覆われた伊吹山の偉容を仰ぐのであった。彦根城にはよく行った。濠凄に架る橋を渡って城門を入り少し登り道になる。この辺りよく時代劇映画のロケがあった。通学の道すがらお痩の側を通るが、その一角に井伊大老の銅像がある。近くには往時の井伊家の下屋敷があり邸内には大きな庭園があり彦根城の天守閣が邸内から仰ぎ見ることが出来る。琵琶潮を摸した大きな泉水があり、建物は現在楽々園という料亭になっている。これも時代でしょうか。
 戦後の一時期井伊直弼の曽孫直愛氏が彦根市長をしていたことがある。彦根の街並は迷路が多い。これは平地の城下町は山城とは異って、敵の侵入するのを妨げる街並みにした由である。碁盤の目の様な街(たとえば京都)に慣れた者にとって道に迷い易い。
 彦根市の人口は当時7万人足らずだったと憶えている。高商は本科の他に別科(一字年)と東亜科(一学年)があった。7万人弱の街としては学生のウエートが高かった。素人下宿が多かったので、街の諸所に学生向けの食堂、飲食店があり、どの食堂も朝食時には学生で賑わった。映画舘の観客も殆んどが学生であった。彦根高商3年間の学生生活を振り返ってみると、頗るのんびりとして楽しい思い出ばかりである。