福島高等商業学校
7組 横溝龍治
福島高商は大正11年全国で7番目の高等商業学較として、福島市隣村の清水村(現在は市に編入)に創設された。県庁所在地でもあった福島市は、当時全国でも有数な生糸の集散地として商業が盛んな土地柄で、明治32年には既に東北地方のトップを切って、日本銀行の出張所が開設された歴史をもつ金融の中心地であった。開校されたばかりの当校は東北地方唯一の高等商業学校とあって、初年度からほぼ全国から入学希望者が集まり、定員140人に対して450人が応募、3倍の競争率であったという。
昭和9年4月には当時全国紙でも話題になった「五教授罷免と学生の講堂籠城事件」が起った。当時国内では非常時態勢が厳しさを増す中で、思想弾圧の波が学園内にも容赦なく押し寄せてきていた。事件はこのような情勢の下で、学校側がその体制づくりのため、日頃、自由主義的思想を持つと目されていた五教授を罷免したことに端を発した。それはやがて罷免に同情する学生たちの籠城事件へと発展し、更にこの争動に学生の父兄までをも巻き込んでの一大ストライキ事件へと拡がって、この地方の純朴な人々に大きな衝撃を与えた。
さて自由闊達な校風を伝統としてさた当校の名物行事に、大正13年以来連綿として続いて来た「外国語劇」がある。これは英、独、仏、中国語による劇で、すべて学生の手によって運営され、娯楽の少ない地方都市の人々にほのかな文化的香りをもたらす役目を担った。私がこれに出演した昭和11年というと、国際情勢が緊迫の度を加えて英米排斥の雰囲気が高まりつつあった時代であるが、外国語劇は堂々と上演されて、男子学生の扮する女性の可笑しな仕種や野太い声の女ぶりが面白いと講堂一杯にギッシリ詰まった満員の観客を大いに沸かせたものであった。
当時は息苦しい時代ではあったが、学生は夫々に楽しみを求めて市内のカフェーやビアホール、食堂などに屯して、純朴可憐な北国のメッチェンを相手に存分に羽根を伸ばしたものである。また近隣の「瀬の上」や「一本杉」といった所にはその種の店があって、ここに出入りする豪傑も決して少くはなかった。また電車で、30分の所には、“恋の飯坂、湯のけむり”の小唄で全国的にも知られた歓楽郷「飯坂温泉」があり、東北の水で磨かれた美人芸妓も数多く、湯に漬かりながらの青春の捌口には決してこと欠くことはなかった。
その母校も戦後の学制改革で福島大学経済学部に昇格し、所在も同じ市内ながら松川台地の風光明媚な広大な敷地に移転した。校舎は7階建の近代的建物となり最早往時のロマン溢れる木造の校舎の面影を偲ぶよすがはなくなったが、伝統的な自由で明るい校風は今もなほ脈々として青春真盛りの若人に受け継がれている。