憧れの商大予科合格
4組 金井多喜男
ご多分に漏れず私の長い人生にも嬉しかった事、悲しかった事が数知れずあった。その中でも一番嬉しく、今でも鮮明な印象として残っているのは、憧れの東京商科大学予科の入学試験に合格出来たことである。他に嬉しかった出来事と云えば、高等文官試験合格、大学卒業に際しての就職試験で第一志望の商工省への就職決定等は、予科合格に次ぐ私の人生の進路を決めた大きな喜びであったが、その感激の度合はこの比ではない。
受験の年、すなわち昭和11年の3月、私は世上云われる灰色の受験勉強から漸く解放されて、甲府市の母の生家に身を寄せていた。初春とは云え、富士山、中央アルプス等に囲まれた山麓の町甲府はうすら寒い。この年には2・26事件があり、この3月には日中関係風雲急ということで前内閣が倒れ、広田弘毅新内閣が誕生したりして、世相は何となく重苦しかった。然し入学式験も無事終って、自分乍らもこの分では多分合格出来るかも知れないという解放感で、重苦しい世相に関係なく私の心は浮き浮きしていた。したがって目に映る富士山、アルプスをはしめとする四囲の連山の冠雪は私には特に美しかった。
愈々試験結果の発表の日となり、合格の連絡を受けた時は、親戚仲間と奥の座敷で茶を飲んでいたが、老祖母が突然立ち上り、大きな声で両手を高く挙げて「バンザーイ」と叫んだ。この声に合わせるかの様に、居合わせた親戚衆が一斉に声を揃えて「御芽出度う」と喜んで呉れた。老祖母はもう七十を過ぎていて、当時で云えば相当の年寄りの事だし、受験の細かい話などは私から話した事も無かった。然し数日間の私の滞在中の挙動なり雰囲気から、若し不合格ともなれば金井家の一大事と心を痛めていたので、思わずあの様な万才を叫んで呉れたのだろうと一段と有難く思った。あの時から既に60年、老祖母は疾くの昔に亡くなったが、あの光景は今でも鮮明に私の脳裡に刻み込まれている。
私が予科合格を斯くも喜んだのには他に大きな理由があった。受験勉強を始めて暫らく経った頃、ある日、私は学較の教頭に呼び出された。何事かと部屋に行って見ると、教頭日く、「君の力では東京商大予科を狙うのは大変難しいと思う。商大予科は一高と並んで難関の双璧だ。吾が校も開校以来九回の卒業生を送り出したが、たった1人しか合格していない。我々の住む九州にも五高、七高、福岡高、それに佐賀高とある。これらの高校なら君の力をもってすれば合格出来るだろうく、考え直したらどうか…・.」との話であった。
私は上級学較進学を検討しだした時から商科大学予科に的を絞っていた。したがって教頭の忠告は予科熱望の私の心の火に油を注ぐ結果になった。若者の意地で教頭を見返してやりたいという一念が試験合格への発奮剤になった事は疑うべくもない。
合格を耳にして、私は妙な勝利感にも浸ったのである。