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小平の思い出(自由と自治)
1組 倉垣 修
1996年は東浜商科村大学予科村人学より60年になる。人生50年に10年もおつりか出来た。第二次大戦に出征し、敗戦の荒廃よりの国土建設、二重苦の奥の対岸に光かがやいて小平の予科生活は存在する。依光さん作の寮歌そのままの紫紺の闇であり、自由と自治の学園生活であった。恐らく、日本一の自由と自治の花開く学園であったと自負している。
昭和11年より予科一年生に限り全寮制となった。旧制高校を意識していたのであろう。授業科目、語学、数学、哲学、漢文国語、経済、法律、と一般上級教養の習得を主眼にしていた。寮生は260人、南寮、北寮、中寮に分れ、部屋には上級生が一人はいた。昭和11件の入学競争率は4.5倍であった。これは、中学の工リー卜中からの倍率である。東浜で第一高等学校、工業大学(蔵前〕、一橋の予科は三大難関と言はれた。従って入学者は、それなりの誇りと、選ばれたものへのふるえる不安と期待を持っていた。
自分でした事の結果は、自分で始末をし、処理をする。これが自由であり、自治であるこの気持は、各人が本能的に持っていたと思う。
小平の闊葉樹の葉をすかす日光の緑の環境は、貴重なものである。全寮制のため、同じ釜の飯を喰い、寝食を共にすることは、どれ程の強い同志的結合を生じたか。私達同窓会十二月クラブの団結の強さはここにある。国分寺駅より多摩湖線にのり商大予科前駅より学校の正門まで一本の砂利道が続き両側は闊葉樹の林であり、民家は一軒もなかった。校舎はクリーム色の煉瓦張り、平方形二階建築で、中庭は緑の芝生であった。快晴の日は、古瀬、西川教授の芝生の上での英文学の屋外授業等、私の記憶より消えない。寮の食事は、量、質共に充実しており、トイレは水洗式、風呂は大きく、机は一人一脚備えっけであった。入寮当初は、度々ストームに見舞はれたが、これもやってみると、意外に心の溌剌とするものであった。
読書、討論、人生問題、「出家とその弟子」、「善の研究」、「若きヴェルテルの悩み」、等々寸暇を階んで乱読した。読書に興奮し頭の中を星屑がチカチカ光るやうで寝っかれぬ夜もあった。手垢のつかぬ柔かい心は、あらゆるものを純粋に受けとれる。環境汚染どころか、心まで汚染されそうになっている後輩達は、ほんもの、にせものの識別能力は是非とも涵養して欲しい。
さて、私は10月25日は国立の東校舎1201号室ピカピカの教室で古沢ゆう子教授の「西洋古典」の講義を聴くことになっている。小平より移ってきた一年、二年の若い諸君と会える。楽しみこれにまさるものはない。愛校心あふれる老先輩が、社会に何万といることを、後輩は心にとどめておいて欲しい。
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