商業教員養成所の思い出
7組 渡辺公徳
商業教育養成所は授業料不要なので、準備はしていなかったが五中の級友の強いすすめで受験した。小さな工場を経営していた父親が工場経営をやめて勤め人になっていたので、上級学校に進むことは断念し、就職も「丸善」に決めていたのだった。幸に養成所の試験に合格した。
五中の担任だった先生が直ぐに家庭教師の口を世話してくれた。入学手続もスムースにすることが出来た。私の家は小岩にあったので、お茶の水駅乗り換えで国立まで、長い国鉄定期券で5年足らずを通学した。アルバイト先が変っても東京のど真ん中を通過するパスがあるのでどこへでもカバ−することが出来た。
入学してのしばらくの印象は、よく学生大会が招集され、授業がよくつぶれることが多いことだった。中学とは違うなと思った。そのうちにクラス対抗のボートレースがあり、私は小柄なのでコックスに指命されて毎日午後、国立から向島の艇庫に通った。身体の大きい連中に号令をかけるので、心臓を鍛えるよい訓練になった。大学チャンピオンクルーのコックスの木村さんが殆んど艇庫に住み込んでいる様な生活なのに独乙語が出来て学業も優秀であり、人柄もよくて私は遠くから憧れの眼で眺めたものだった。
三年生になって、四月新入生の歓迎会をやったところ、新人生の一人か立って、商業教再の意義について大演説をぶったのにはびっくりした、彼は山崎吉雄という東北の師範学校を出て小学校教師を経験した経歴の持王で、人物も出来ており、全人格的に教育にぶつかって来ている。言うところは堂々としている。この君は僕らの後、学部を出て山形大学教授になり洒田市の本間家の古文書の調査を委嘱され立派な研究成果を挙げているが、これはずっと後の噺。
三年の半ば過ぎの頃、クラスの気持が盛り上がり「商業教育研究会」を組織して、一、二、三年生を通じて商業教育の能力、意力の涵養に学生が自分で努力することとし、この事業を発足した。その準備に同級の盛田正夫、清水重正と討論し、大へん勉強になった思い出がある。
この二人とも戦中で失ったのは残念である。心裡学の楢崎浅太郎先生の講義でギリシャ彫刻の鑑賞についてのお話があり強い印象を受けた。上原専緑先生の経済史の講義では原典批判の厳しさを仕込まれた感しであった。米谷隆三先生のお話、制度法学の真髄は分らぬ乍ら法的物の考え方には動かされた。
何も分からない中学生が養成所に入って3年、先生、先輩、同級生にもまれて向学心をそそられた。東京近辺の商業学校教職のロもない様な様子なので商科大学学部の入学試験を受けることを決心した。
養成所からは松井利郎、野他忠平と私の3人が入った。入って見ると養成所の先輩も一緒に沢山入っていた。名簿順に拾うと、相川周平、上原聡、大橋周次、兼子春三、杉江清、土田三千雄、野崎富作、藤井湧吉、森清の9名だった。