予科の思い出
6組 三好啓治(山口県光市)
@入試 われわれの入試の年、昭和11年には二・二六事件があって、どうなることかと思ったが、人試は取り止めにならなかった。しかし、中学生として、当時の軍人、軍隊の行動にショックをうけたことは事実である。
当時から東京商大予科の入試には特長があり、英語のヒアリング・テストがあり、国語には作文で、筆で書かせるテストがあったので、墨汁と毛筆を持って行ったことを思い出す。英語のヒアリングでは、外人の先生が各教室にやってきて発音した。その時の英文は、たしか「スイスはヨーロッパで最も山の多い国である」がはじめであったと思い出す。
中学4年で受験した私は、5年生や浪人生には英語や国語では負けるので、数学で頑張ったと思う。従って、当時、6題の問題が出たが、 これは全部やれた。それで合格したのだろうと思った。
A寮生活 私どもの年から、はじめて新入生は全員寮に入らねばならなかったと思う。その為に予科は小平に新寮をつくった。1年間いたら、翌年は通学してもよかった。東京牛込区(今の新宿区)原町に家のあった私も入寮し、4人ー部屋で生活した。その時の学友が、韮沢嘉雄、鈴木栄喜、茂木利孝君の3人であった。4人のうち3人は生きているが、茂木君は大学卒業後、海軍主計長となり、多分トラック島で軍艦と共に戦死したときいている。残念に思う。
B学校生活 第二外国語を独乙語とフランス語によってクラスを分けられ、フランス語をとった韮沢君は5組、鈴木君と私は6組となったが、独乙語をとった茂木君は2組であった。それぞれ運動部に入り、韮沢君は陸上競技の中距離、茂木君はサッカーであったが。私は上級生の宣伝「オリンピックに行きたければホッケー部に入りなさい」ということに乗りホッケー部に入ったが、半年以内に足を怪我して退部したが、部生活では練習が苦しかった。
授業には予科の先生のほか、大学の先生の講義もあり、私は商法の米谷隆三先生にほれ込んだ。従って、大学に入った時は米谷ゼミに入ったが、この米谷ゼミの先輩の一人に、元総理大臣大平正芳さんかいた。大平さんも米谷先生のすすめにより公務員試験(高文)を受けて大蔵省に入った人である。大平さんが総理の時、山口県庁でお会いした時の写真が残っている。私は昭和17年外交官試験に合格した。それから海軍予備学生になっていた。