『学士院会員 水田 洋君の話を聞く』
(第103号 平成11年12月号)
10月例会議事録 1組担当 鈴木貞夫記
日 時 10月13日(水)12時〜14時
場 所 如水会館 さくらの間
十二月クラブにとって「最初にして、恐らく最後になるだろう学士院会員」水田 洋君を迎えて話を聞いた。
彼は義理堅くも、本日出席の皆さんにと言って彼の著書の内比較的読み易い本を選んで持参、贈呈があった。
そして又、彼が理事長をやっている「わだっみ会」について、十二月クラブメンバーに「最初にLて最後のお願い」と称Lて應分の寄付を依頼したところ、相当の結果を侍られ、申訳なくかっ感謝に堪えないと挨拶があった。
本題に入り、学士院とはなにか、の話になった。まづ学士院は栄誉機関であり、かっ研究機関である。文化功労者よりは低い年金を授与されるが、これは給与であり税金の対象となるとのこと。これは身分が「非常勤国家公務員」だからとの説明で納得。
メンバーの選出方法は、経済学・商学の部門定員16名(現在欠員1名)が投票によって決める。そして本来は学士院は研究を奨励する建前であるが、外国のアカデミーが研究活動そのものをやっているのに対し、日本では内部で、「今更」という声が多いのである。 どうLてそのような処へ迷い込んだかとの声も聞くのだか、自分としては社会思想史と云う領域が学問的に市民権を得たと考え、喜んで入れて貰った。あれだけ権力に楯突いてよく学士院会員になれたものだと言はれたこともある。
勲章はことわった。「あんなもの貰ったら離婚する」と女房に言はれた。又、会員になってから、先輩から「服装改革をするつもりでないのならネクタイくらいしめろ」と言はれたし、それから会員の研究業績に対し顕彰のため授賞することがあるが、その際、天皇、皇后両陛下が正装で見えるので、当方としてもモーニングを着用せねばならず、まあ必要経費として考え、用意することとした。
次に、彼の若き頃の話に移った。彼は文学少年で中学2年の頃から日の丸、君が代が嫌いで今に至っている。又彼の母校府立一中の校風が大嫌いで、一年も早くここから離れたいと思い中学四年で東京商科大学予科を受験、無事合格した。
あの当時はすでに準戦時体制と云うか、嫌な時代になっていて、友人がある時下宿の部屋に戻ったら、置いてあった本の位置が変っている。下宿の小母さんに尋ねたら、不在中に「特高」が来て書棚を調べていったとのこと。又、寮にいた先輩で清水健人、山代 洋などがつかまった。何もしていないのに、特高のデッチ上げでつかまり有罪とされ、学校は除籍され、一兵卒として兵隊にとられ戦死して了った。松田学生課長に呼ばれ、「君は若いから助かったのだ。呉々も注意するように」と注意された。自分はマルクスボーイであったことは間違いないし、気持の良い時代ではなかった。
それから卒業して東亜研究所に一年間いた。徴兵検査は第三乙だった。軍属の身分でジャワに行った。町の本屋で「資本論」がドイツ語、フランス語、英語とあるのを見っけ早速購入したが、植民地でこれだけ揃っている。ヨーロッパとはこう云うものかと感嘆した。日本には市民社会がないことを痛感した。
ジャワではいろいろの人に会ったが、ある時埠頭で船から下りてくる海軍主計大尉の武川祥作君に出会った時は面白かった。又、ジャワでは始めから終り迄近くに駐屯していた自動車隊の隊長村井秀雄君にはお世話になった。彼とはしょっちゅう会っており、彼の部下から「隊長殿、同じ大学を出たと云うことはそんなに良いことなんですか」と訊ねられたと村井君が笑っていた。
捕虜生活を終えて、一ツ橋に戻り特別研究生として社会思想史を勉強していた。指導教官は恩師高島善哉さんの直系の先生大塚金之助さんだった。高島さんは大塚さんに全然頭が上らない人だった。その大塚さんから「生意気だ」と睨まれて了い、結局一ツ橋に残れなくなったのだ。
当時同じゼミの末永隆甫君は大阪商大で助教授になっていた。残された自分に、新しく経済学部を設けることになった北海道大学、弘前大学、名古屋大学などかあり、北海道が好きなので北大に行こうかと思っていたら、杉本栄一さんに「北海道なんかやめろ、田舎者になって了うぞ」と叱られ、名古屋に行くことにした。
アダム・スミスが自分のメインテーマだったが、彼は三浦梅園やイマニュエルカントと同時代の人だった。そして彼の主張は、利己心をどこでコントロールするか、と云うことだった。各個の権利は認めるが、その権利がぶつかり合った時どう折り合いをっけるか、と云うこと。結局は平等論で、スミスには経済学、道徳倫理学はあったが政治論はなかったと言はねばならない。
次に「リヴァイアサン」のことだが、これは高島ゼミでのテクストだった。これをジャワに持って行ったが勉強しなかった。捕虜になってから翻訳をした。岩波文庫に四冊本で入っている。元のものである。ホップズは生活資料を生産することは考えないで、あるものをとる、と考えた。当然とり合いとなり、けんかとなって了う。人間の生活権を守るため国家が出来た。国家とは人間の基本的人権を保障するものだと考えていた。 税金の使い道だが、生存権、生活権のためにあるものだと思う。愛知県のオリンピックや万博の招致に反対するのもそのため無駄遣いと言はねばならぬ。ホップズと市民とをっないで考えている。又、自分はマルクスボーイなので、「下から」と云うことは「市民生活の中から」いっも考えている。
最近の学生だが、自分は研究者の育成に力を注いで来た。その効果は出ていると思う。講義の時などノートその他なにも持って行かない。これに対し、当然「失礼だ」との声もあるし、「あれが良いんだ」との意見もあった。私自身は書いて出版したものを再び教室で読み上げると云うのは好まない。
ところが女房が名古屋経済大学で教えているが、学生達は例の携帯電話でこちらの隅から向こうの隅へと話し合っている。又同じ携帯を使って「今日は出欠とるぞ」と外部の学生に教える。すると、ドット学生が入ってくると云う始末。話しにならない。まあエリート大学はそれなりのものがあるようだが。
いづれにせよ、自民党の文部省は押しつけ行政ばかりでどうにもならぬ。大学では自分で考える癖を養うことが大切なのだ。又、「ゆとり」と言いながら、そのように動いていない。
最後にアダム・スミスに戻るが、自分は1954年〜56年の一年半、グラスゴー大学に奨学資金で留学した。これが今回学士院に入った一因かと思うが、留学中スミス生誕の地カーコーデイに行った時、そこの大学の女の先生が、「スミスを研究すると日本ではメシが食えるのか」と聞いてきた。このように、郷土の誇りとしてスミスを見るようになったきっかけを与えた次第。国際的にスミス研究をリードして来たと賞賛されている。
それから、大切なことだが、国富論と道徳感情論とを併せ研究Lたことは日本独特のものだが、自分は高島善哉、大河内一男のお
二人がやられたことをまとめて伝えて来ただけだと思っている。最近また新しい研究の流れが見られるので将来を楽Lみにしている。
(一組鈴木貞記)