予科時代の想い出
3組 森田益堂(和歌山)
私は皆様と予村人学は昭和11年4月で、直ちに小平の予科寮へ入れて貰ひました。しかし残念乍ら剣道部に入部して私としては相当心身に摂理をしたので風邪により昭和12年春休みに帰省(和歌山)した時40度の熱が下がらず、近くの病院へ入ったが遂に休学の憂目に会ひ、予科の恩ひ出がよくありませんので、記憶に残る方々は、和歌山県出身の上野富造君(2組).や川崎文治君〔2組)、柿沼幸ー郎君〔4組)、田中林蔵君(3組)等であり、最も親しかった上野富造君は惜しくも終戦前に軍艦と共に戦死され残念に堪えません。
葉書 (裏) (表)
上野君の父君より森田君宛の葉書(昭19・3月の消印)
「‥‥卒業後住友化学に入社、
直ちに海軍主計‥‥‥軍艦愛宕に乗組み…現在駆逐艦帆風に乗り組」
云々の文面
昭和16年3月やっと予科村卒業しましたが、私は熱発の為記憶が薄れ(京大医学部付属病院精神科へ人院)精神分裂症の為社会より隔離され危いところでしたが、又上京して16年4月に学部に入学しましたが16年7月またまた病の為学部1年にて退学した訳です。従って私と12月クラブとの縁が薄いのに会員として遇して頂き有難いと存じますが、何分現在は清酒醸造、販売に経営者として現役として頑張って居ります。
現在尚浮洲静太郎兄こ引いていただいてますが、又高野山等へお越しの節にはお寄り下さい。現在私の会社は創業以来250年以上、一時は(明治の末頃)灘、伏見の酒蔵に劣らぬ程造酒して居りましたが、今では所謂DSの安売りに押され気味ですが、品質の点では全国一と自慢して居ります、従って贈答用に「酔人日」(スイートピー)といふ酒が東京方面より御注文いただいてます。
さて又予科時代に戻り2組のJ川崎文治さんと寮でもー緒でしたし、同君が大阪市大の関係で関西でお住ひでしたので、たしか終戦後昭和30年頃でしたか戦死Lた上野君を湯浅町の実家に弔ふべく二人でおまいりしました。その時はお父様(上野貞次郎)もお兄様(上野甚一)も御元気でしたので喜んでいたゞきました。只今ではお兄様も亡くなり冨造君の妹さんが東京方面へ嫁いでいるとの事お伺ひしましたが詳しくは判りません。