長崎高商のこと
              
                               7組 河本博介
 
  長崎高商の創設は明治38年3月に遡る。同年9月第一回入学生として全国から113名が集まった。長崎は古くから海外貿易の港町として栄え、鎖国時代も唯一の海外文化の窓口としての歴史的背景を持っている。海外で活躍する人材の養成はその重要な目的であったし、外国人の受入れ殊に中国からの留学生を積極的に受け入れ、国際交流の役割を果たしてきた。
  昭和19年日米戦争の末期、経済専門学絞と改称、高商の名称は消えた。(この時期、東京商科大学は東京産業大学と改名した。昭19年10月)。同時に工業経営専門学校を併設したが昭和21年に廃止された。
  戦後の教育改革で、昭和24年長崎大学が設置され経済学部として昇格包摂された。専門学絞としては昭和26年第44回卒業生を送り出してその幕を閉じた。平成7年、創立90周年を盛大に祝った。
  筆者は中学を出て長崎で始めての寮生活に入った。自由な空気の学生生活であった。教授陣も一橋出身者が中心であった。入学間もなく恒例のポートレースがあって、各出身校地域毎に友団が結成されて選手を出し、応援団を作って盛んな応援合戦を繰り広げ、高揚した気分を味わった。「ポートレースが終ると市内に繰り出して友団のコンパ、始めて酒の洗礼を受けるという具合であった。長崎の街では盆の精霊流し、秋の諏訪祭り{諏訪神社の御輿(ミコシ)祭り}と余所(ヨソ)者には誇らしい全市をあげての賑わいであった。
 学内でも語学大会、音楽会など次々と行事があり、学友会の活動も盛んで対外試合など活発であった。長崎の街は古くから海外に門戸を開いていたせいで排他的な気風が無く、エキゾチックな色彩は人情豊かさと相俟って青春を送るにふさわLい土地柄であった。
 しかし、こうした空気も満洲事変、日支事変の進展で国防国家の建設が声高に叫ばれ、学内でも軍事教練の強化、思想善導などと次第に暗雲が拡がってゆく時代であった。
 一橋に進学し卒業して教職についた。昭和25年母校である長崎大学経済学部に転任して来たが、赴任当時の長崎はまだ原爆の跡も傷ましく、学校も街も荒れた感じで昔の面影は薄れていた。
 その後、この母校で31年間勤務して退職した。
 母校勤務中に体験した(多分)他の大学では無かったことと思う一つの出来ごとを記してペンを欄(オ)くことにする。
 昭和39年1月、当時の学長が経済学部の大学本部地区内への移転を経済学部長に申し人れてきたことが発端となって、以後約1年半にわたり経済学部と学長(大学本部)との間で全面的な抗争が続いたのである。当時は、本部地区内学郡、他地区に医学部、経済学郡と三地区に分れていて、俗にタコの足大学であった。大学の統合設立の結果の現象である。学長からは、経済学部の移転理由の説明がない一方的要求であった。当時、工学部の新設が懸案となっていた。本部地区が狭隘な為、本部地区に経済学郡を移してその跡地に工学部を新設しようとする構想だと思われた。経済学部は長崎高商設立以来約60年のよき環境の中で伝統を形成して来た。
現在地に愛着心を持っていたことは云うまでもない。工学部の新設に反対するのではなく、また、全学部を統合、新しく広い土地への移転構想ならば兎も角、工学部との入れ代りで、経済学部が犠牲となって狭隘な地区へ移転することなど到底考えられないことであった。緊急経済学部数授会は全員一致で反対、経済学部同窓会も強力な反対決議を行ない、全国の支部も同様な動きをした。学長からは再三にわたり移転要望があったが、その都度、経済学部長は拒否し続けた。教官、学生、同窓会が一丸となって移転反対デモ行進などを実行した。そして年が明けて、学長は評議会を使って強行手段で最後通牒的な移転要望の通知を出してきた。が、経済学部側も断固反対を貫いた。学生は3月の卒業式に大多数が出席せず、新聞は卒業式をボイコットと報じた。こうして事態はデッドロックに乗り上げたまま経過した。水面下の動きもあったろうがその後、同窓会の役員が学長と面会した際、学長から、早急な移転は困難故、工学部設置は新しい構想でゆきたい旨の発言があり、事態解決の兆しが見えてきた。この年9月、経済学部の60周年記念式典で、学長は、工学部を本部地区内に設置することで文部省承認を得たことを公表した。大きなトラブルであったが経済学郡サイドの一致団結した運動で解決を見ることになった。
 その後、歴史は移り変り、老朽校舎の解体、そして現在地での新校舎建築へと進んだ。
 
 付言 昭和39年9月、筆者は在外研究で羽田から出発する前に文部省に寄り、大学局長にお会いした。これは学部内の事情を話しておいて欲しいとの経済学部長の依顆によるものであった。その折、学部長がデモ行進の先頭にいたことがいち早く本部側から文部省に伝わっていた様で、文部省側に不快な印象を抱かれていた様に推察した。暫時歓談して辞去したが、その時の局長が奇しくも杉江清さんであった。