長崎高商を語る
7組 篠原康二郎
私は将来、呉服関係の家業を継ぐつもりで、福岡商業に入り、当初進学の希望はなかったが、父が家業の継続を断念したため、一念発起して進学に方針を切替えた。長崎高商を希望したのは、長崎が鎖国時代以来の歴史的な開港場で、何か異国情緒の漂う明るいそして人情豊かな土地柄であり、また学校か古い伝統ある校風をもっていたことなどによる。正に校歌の一節にも謳われているように「文華を西の国人がここの水門(みなと)に運びたる、栄ある瓊の浦曲(うらわ)かな」である。
長崎高商は、そのような西洋文明の黎明を伝えた地、長崎市に、明治三十八年三月、東京、神戸に次ぐ三番日の官立高商として創立された。
私が入学したのは昭和十一年四月、二・二六事件の余韻まだ醒めやらぬ頃である。学校の所在地は長崎市片淵町、おくんち祭りでも有名な諏訪神社はその南側ほど近くにある。 山あいを流れる西山川に沿って校舎が連なっているが、その川に架かる西欧風の石橋を渡ると正門、それからオランダ坂ならぬ平らな石畳の道、正面突き当たりの赤レンガのアカデミックな研究館、そして道の左側に建っ木造の黒ずんだ焦接茶色の本館が印象的であった。現在は長崎大学経済学部となっているが、その木造の懐かしい校舎は改築されて今はない。一学年の定員は二百五十名、五学級に別れ、一年生の時だけ商業半投出身者五十名でその中の一学級を編成していた。入学の翌年夏には蘆溝橋事件が起こり、間もなく上海にも飛び火して日支の全面的な戦争となった。長崎は大陸とも近く、上海との間に定期航路があって戦禍を逃れた引揚者の上陸地点となり何か緊張を覚えたものである。やがては、上海の東亜同文書院が全校を挙げて長崎に移転することになる。
長崎高商の教料の特色としては、やはり外国貿易関連に力が入っていたようで、語学も第二外国語にオランダ語、スペイン語、ロシア語などもあり、また本科のほかに海外貿易科や貿易別科が附設されていた。 教授陣には一橋出身者が、只見徹校長をはじめ、武藤長蔵、馬場誠、塚原仁など錚々たる教授が名を連ねておられた。なかでも武藤長蔵教授は日英交通史の権威であり、大変ユニークな講義で学生に親しまれていた。私が一橋に憧れを持ったのは、このような先生方の影響が大きい。
長崎の学生生活は、まことに快適、大浦や浦上の天主堂、オランダ坂、眼鏡橋、中華風の崇福寺、ささにあげた諏訪神社、それに中華街や丸山の花街などなど、また春の凧(はた)揚げやペーロン競争、お盆の精霊船流し、秋のおくんち祭りなどの風趣豊かな諸行事あり、思い出は尽きない。
以 上