名古屋高商と私
        
                         7組 斉藤一夫
 
 私は地元名古屋出身ではないので、名古屋高商の歴史に地元の方ほど詳しくない。また、卒業後の学校の変遷、経過についてもほとんど知らない。そこで、古い卒業生なら誰でも知っていることを紹介し、余った紙面で私の関係Lたかぎりの名古屋高商のことを書いてみよう。
 名古屋高商の創立は大正9年(1920年)で、昭和14年卒のわれわれは第16回の卒業生である。
初代校長は渡辺龍聖先生、われわれの頃は二代目校長の国松豊先生であった。初代渡辺校長は
当時の大へんな大物校長であったそうである。もともとは倫理学専攻の哲学者で、東京高師教授、それが新設の小樽高商の校長を拝命してから畑違いの商業教育に転じ、十年後にはさらに新設の名古屋高商の校長に横すべりして、優秀なスタッフを引っこ抜いて乗り込んできたという。なぜ小博から名古屋に移ったのかはわからないが、この大物校長が名古屋高商の校風をつくったそうである。われわれ在学当時もご健在で、ときどき学校に見えられたらしいが、私はご尊顔を全く記憶していない。キャンパスの中庭に胸像が完成して除幕式が行われたことは憶えている。
 われわれのころの経済学の教授陣は錚々たるものであった。金融論の高島佐一郎先生、雁行形態論の頻松要先生、ゴットル経済学の宮田喜代蔵先生、経済構造論の酒井正三郎先生、ドイツ経営学の藻利重隆先生など。そののち赤松先生と藻利先生は東京商大に、宮田先生は神戸商大に転じられた。学風は一橋系であった。
 私は東北の福島県出身で、名古屋とは何の縁もなかった。名古屋高商は受験誌の紹介で知ったそれだけで飛び込んだのである。当時名古屋高商には北は北海道から、南は沖縄、さらには満洲などの外地から、入学者が全国的規模で集まってきた。他郷出身者の多くは、一年生の間は五棟からなる寮に住み込んで共同生活をしたが、この生活が珍らしく、またまことに楽しかった。キャンパスにおける地元出身学生との交際とともに、私たちの人格形成に大いに役立ったと思う。
 戦後は母校とも、また名古屋の地とも次第に疎遠になってしまった。母校は名古屋大学に吸収され、旧キャンパスはなくなった。三年間の学生生活で得た地元出身の二人の親友を戦争中相次いで失った打撃は大きかった(一人は戦死、一人は病死)。遺族、特にご母堂がたとのおつきあいは続いたが、いまではその必要はなくなって淋しい。