小平の寮でのことども
            
                           6組 中付 達夫

 2月26日、大雪となった朝に勃発した大事件の余韻覚めやらぬ昭和11年3月下旬に、私どもは、建学以来『自由』を標榜していた一橋が初めて制定した『全寮制度』下、『初の第1回寮生』として、小平の地に新築された『一橋寮に入寮しました。もう60年も前になるこのことは、その時点では殆どの誰もが、自分等の頭の中では全く気が付いていなかったのですが、その後の生涯を顧みたとき『忘れることのできない重大事』だったのですね。
 私に割り当てられた部屋は北寮5号室。同部屋は3年生の池尾さんと山岡博次さん、1年生が山岡信義君・黒川忠嘉君(ともに1組)、石井重嗣君(以上5名の方は、全員故人となる)と私(ともに6組)の6名でした。池尾さんは寡黙・脚太のサッカー部重鎮。山岡博次さんは温顔・スマートな音楽部のジェントルマン。ともに素晴らしい上級生でした。
 丁度この時期『白票事件』という大問題で、学内は大揺れ揺れていて、連日の休講。代わりに『学生大会』と称する会合が招集され、何も分からない新入生は、すっかりオジサン風貌の上級生の悲憤慷慨型の大演説を、外国語を聞いているような思いで首を捻ったものです。 学生大会を終えて寮への帰途、顔見知りの2年生のH氏が私に連れ添いました。彼は、学生大会の意義・白票事件の性格・学生が採るべき態度・今後の日本の進むべさ道等を熱っぽく語りかけてきました。私は、話しの内容が十分には理解できず、ただ適当な相槌で応答したように記憶していますが、『この人は相当に左がかった考えの人だな』と直感しました。私の反応が鈍かった故かその後の接触はありませんでした。戦後、この方は戦死されたと知りました。
 間もなく、寮の食堂に『第1回目の寮歌の懸賞募集』の大きな張り紙が出されました。
  私の頭はどちらかというと理科系で、美文調の詩作は苦手のため応募する気はなく、しかし 何となく発表結果を待ち望んでいました。
  発表結果は次のとおりでLた。
   第1席『紫紺の闇』依光 良馨(3年生)
   第2席『故郷の春』間宮健一郎(1年生)
   笥3隻『霏霏燦爛』長谷川 威(1年生)
  私は、この3篇がどれも素晴らしい内容であり、『これで我が予科にも、一高・三高に負けない寮歌ができた』と胸を張り、特に1年生から2名の入賞者が出たことを喜び、4組の間宮君や同クラスの長谷川君の立派な才能に感服し心から敬意を感じたものです。
  山岡博次さんは第1席『紫紺の闇』の作曲を担当されることになりました。山岡さんは、楽器のあるところで作業をしておられましたが、寮室に戻っても時折メロディを口ずさんでおられたので、私は本曲が正式に発表される前から覚えてしまったくらいでした。  ある晩部屋で山岡さんと2人きりのとき、私は、「『紫紺の闇』は、『故郷の春』や『霏霏燦爛』と内容が違って若干政治色かあるから、作曲は難しいのではないですか?」と尋ねました。山岡さんは、ちょっと間を置かれて「そうなんだよ。『自由の砦、自治の城』『自由は死もて守るべし』は今時問題となりそうだし、『仰げば凄し鎌の月』だって意味深だからね。だから、むしろ明るいメロディにと苦心しているんだよ。」と、いっもの笑顔でなく、真顔で呟くように言われました。
 (私は今でも、文部省の圧力下、当時の学校当局がこの歌詞について「官立の学生の歌として相応しくない」とよく文句をかけて来なかったと不思議に思っています。真偽は不明ですが『教授会で一応問題になったが、上田貞次郎新学長の「結構じゃないか」の一言でこの問題は消えた。』ということを聴き、流石に上貞さんは偉い人だなぁと感し入ったことを覚えています。)
 初めての長い夏休みには朝鮮半島に渡り、同クラスの塩川君・その友人達と北鮮の金剛山を歩き回わる等の経験をし、何となく大人の仲間に入ったような気分でいる新字期に、ドヤドヤと教室に入ってきたポート部の上級生に指名され、秋のクラスチャンレースのCOXをっとめることになり、非力クルーで最下位と予想されたのに練習に励み、勝利して、以後の私の学生生活だけでなく、私の人生そのものを大きく変えたボートと繋がる生活か始まったのです。 当時のポート部の生活は正に『端艇道の奥義を極める』という『精神と肉体とを鍛錬する修業』の毎日ということで、『民主主義』・『社会主義・『共産主義』等とは全く無縁となって、むしろ『一身報国』を肯定する人格がかたちつくられて行くのでした。
 上記が、60年前の予科1年の頃の、私の小平での少年時代の心の細流の一齣です。