大分高商時代
7組 岡本不器男
ここに書いた学友は、皆、故人となり、冥福を祈り乍ら記事といたしました。
昭和11年4月から3年間、大分市の上野ケ丘に通った。当時の大分市は人口6万人位で、産業といっても繊維工場がある位の町であった。温泉で有名な別府に対して、大分は府中と呼ば れ大友宗鱗が海外との交流をもった所である。 高商ができたのはこの海外との交流が縁かも知 れない。
入学全員は150名で、1年の時は中学出身が 4組、商業出身が1組あり、中学組は簿記、商事要項。商業組は数学、文学の講座があった。 2年からこの区別がなくなり、別々の授業を受けたのは第二外国語やゼミナールである。経済原論、会計、金融、保険、海運の講座は商大出身の先生が担当していた。校内に寮があったが僕は下宿生活を選んで3年間を過した。下宿代は三食付12円から15円位で、弁当のおかずは塩鮭かコロッケである。毎日塩鮭なので下宿を替った連中もいた。運動部や文化部は夫々活躍していた。僕が入った庭球郡は1年の夏、九州地区で優勝した。長崎には寺山口に中牟田がいた時代である。高専の全国大会は東大の中村橋のコートで四地区の優勝校が競った。名古屋が全国優勝した。東京に来たのはこの時が始めてで、大分は田舎だと痛感した。昭和14年3月15日 回生として大分を離れ、国立に藤岡、麻生両先輩と一緒に進学した。国立を卒業した後、忘れられないことがある。
それは昭和17年2月、熊本の野砲隊に入営した時、大迫千尋君(4組)が同じ中隊の同じ班で寝台一つ隣で寝起きした。しかも中隊付の見習士官が大分高商の1年先輩で、大分で同じ下宿にいた人だった。この先輩に何かと助けてもらった。夜、点呼が終ると見習士官室にくるように命じられ、その実息抜きさせて貰った。そのうち大迫君も一緒に毎晩勉強の為に見習士官室に行った。その先輩のお蔭で3ケ月後、二人とも苦手な馬の世話から解放された。幹候隊では都城(ミヤコノジョウ)(宮崎県)から新坂建也(5組)、地元の歩兵隊から本田祐治の両君と同室になった。この時熊本の輜重隊に吉川良秋君(6組)がいた。ソ連のタタール国のエラプカ収容所に移った時、吉川君と一緒になりこのことがわかった。僕は茂木先生にロシヤ語を一年習ったので通訳をしていた。尻込みしていた彼
を通訳班に引き入れ、隣り合わせの寝台で暮した。日本人が5千名ほどいた。入ソ後2年、日本に帰還する先発千名の集団の通訳として彼は僕より先に帰国した。日本海が凍る寸前の出帆であった。
今春、別府に遊び懐しの大分に行ってみた。上野ケ丘には赤煉瓦の昔なっかしい校門が左右に二つ残っているのみで、木造だった校舎は姿を消していた。高商は大分大学となり、南方7粁奥に入った旦の原(タンノハラ)台地に引越したという。