葵が丘の想い出(大倉高商)
 
                                  7組 菅井淑行

 総てか懐しい想い出の数々である。
今は、JR国分寺駅近くに移転し、その名も「東京経済大学」と改称されている我々の母校「大倉高商」は、その頃都心の赤坂葵町の地にあった。虎の門から徒歩で3分余、隣りは中国文化の逸品で満ち溢れた大倉集古舘である。ホテル・オークラは勿論なかったし、アメリカ大使舘も今日程の偉容を示Lてはいなかった。が、霊南坂の桜は今に変らぬ匂いを漂わせていたし、はるかに教会の鐘声も聞えてきていた。
 入試の際、後年石川県教育委員長に転じられたS教授から「君は入っても英語で落第するよ」とおどされた通り、英語と軍事教練を別にすれば、商業学校出身者にとっての高商の授業は誠に天国だった。
 葵町の地は校歌「愛宕の山の梢に近く」にもあった様に授業の合間を縫っての昼寝などには最適の場所もあり、銀座も歩いて間近である。一皿のカツライス、一杯の蜜豆で不二家の2階や立田野あたりで2時間も駄弁れることは当時としては大した楽しみの一つでもあった。
 アーノルド・ファンク監督の映画「新しい土」は原節子を売出した名作だったが、封切日の朝、50銭玉を握って帝劇の列に並んだことも忘れられない。
 その頃、少人数ながら大倉クルーは大いに頑張っており、赤いオールの一橋や水色の本郷にもひけを取らなかった。日曜の朝早くから言問、蔵前まで出かけ「フレー大倉」を絶叫したことも何回かあった。
 授業へもちゃんと出席して、学校からマークされるような事は無かった。当時一橋からは井藤、高島両先生が講師として見えておられた。高島先生の熱気に満ちた講義には魅せられる者が多く、僕もファンの一人になり、いろいろ無理なお願いなどもして了った。井藤先生の講義は各組の合同で受けたが例の京なまりの調子で大へん楽しかった。当時の関係で大学へ入ってから、また学校を出てからも吉祥寺のお宅へは何回となくお伺いし、地方債の本を書いた時には長文の序文さへ書いて頂いた。
 受験も終り入学してみたら羽太さんと一緒だった。二人で杉本先生のプロゼミに入れて頂いた。 
 葵が丘、当時の葵町は現在虎の門二丁目となって虎の門病院や大蔵省印刷局、商船三井ビルが並んでビル街となっている。