高 専 め ぐ リ
小樽の街にて
7組 澤登源治
阿部謹也一橋大学長の著作に「北の街にて」(1995初版、講談社発行)がある。阿部学長が昭和39年から12年間小樽商科大学で教鞭をとられた折の珠玉の名随筆集であるがそれ程小樽商大(旧小樽高商)と一橋との学問の交流は古くからら非常に緊密なものがあった。我々の在学中も主要な講座は一橋出身の教授で占められていた。現在の小樺商科大学は小樽高商から新制大学に昇格した訳だが、国立大学として単一の高専がそのまま大学に昇格した極めて珍らしいケースで、それ程小棉高商が小樽の土地に深く根差していた学校と云えると思う。
いま何故私が小樽高商を志望していたのか、その動機を振り返ってみると、札幌一中での規律の厳しい中学生活から下宿生活という自由で開放的な生活に憧れ、どこか遠い処に行きたいと云う単純な動機から、当時理科系しかなかった北大を受験せず、両親に強く札幌にない文科系を希望したのがその理由であった様に思う。もっとも、長く札幌で商家を営んでいた父の希望に副うものであったのかも知れない。従って小樽高商での生活の当初は、規律の厳しい中学生活から開放された反動と小樽の街の土壌が高商生を大人として受け容れてくれる寛容との相乗作用をして、夜な夜な友人達と放歌高吟する放恣な生活で始まった。然し放恣な生活のあとに来る虚脱感と小樽高商の並居る教授の一橋との密接な学問的交流関係をみるにつけ、猛然と一橋に進学したい欲望に駈られて来た。私の小学校から大学卒業迄の学生生活の中で最も必死に集中して勉強したのは高商三年生の一年間ではなかったかと思う。
次に、私の人格形成に本当に役立ったのは国立に於て最高の学問的雰囲気の中で優秀な数多くの友人達と人生を論じ学問を語った一橋の三年間であったことは云うまでもない。
咋’96年10月に帰郷の折、久し振りに小樽を尋ねたが商業交易の町は観光都市と変り、人口は55年前と大差のない18万人で止まり札幌のベッドタウン化してしまった。地獄坂と呼んでいた良く勾配のきつい坂を登りっめた高台にある小樽商大はコンクリート建になり昔の黒い詰襟服の学生の姿は今は色とりどりの服装で教材をリュックサックで背負う学生群となり、しかのみならず学生群の相当数は女子学生と云うキャンパスに変ってしまっていたが、小博港を一望に収める学園のたたずまいは、今も昔も変らぬ懐しい面影を残していた。
最後に阿部学長の前掲書の一節を引用させて頂く。「ひとたび住んだ人が何処に行こうとも常にあそここそが私の故郷だといふ思いを抱かせる街がある。小樽はそういふ街である。今でも小樽商科大学に寄ると何人かの職員は“お帰りなさい”といふ。この街の人も、ひとたび住んだ者はいっまでも自分の街の住人だと考へているように見えるのである」(同書57頁)