日本とロシア
中村喜和 一橋大学名誉教授
(12月クラブ通信 平成12年(2000年) 12月号 第106号)
7月例会 議事録 3粗 大串隆作
(日時 7月12日 場所 如水会舘3階「松風の間」)
今月は3組が担当で、一橋大学名誉教捜、現在共立女子大学教授の中村喜和氏を迎えて「日本とロシア」というテーマでお話を伺うことにした。同氏は昨年6月、創立275年の歴史をもつロシア科学アカデミーの最高賞であるロモノーソフ記念金メダルを受賞されたが、日本人としては湯川秀樹、朝永振一郎両博士につぐ3人目の受賞者となった。授賞理由は「スラヴ学領域での研究業績と日本に於けるロシア文学、文化の普及への貢献」。この金メダルは毎年ロシア国内一人国外一人ずっに贈与されるが、昨年はロシア人としてはノーベル貰作家ソルジェニーツイン氏、外国人としては中村教授に贈られたものである。
講演に先立ち、3組幹事より中村先生の紹介があり、同氏の略歴などが報告された。
一橋大昭32社、昭37同大学院社研博 金子幸彦ゼミ 平成二年、著書「聖なるロシアを求めて」により大佛次郎賞受賞
次いで先生の講演に入ったが要旨次の通り。
「私は昭和37年(1962年)大学院修了後、日本貿易振興会(JETRO)に勤務Lたが、在学中学習したロシア語で教師として身を立てる気は全くなかった。一方、その間ロシアでは1957年宇宙衛星打上げ、1961年にはガガーリンが世界で初めて有人宇宙飛行に成功するなど、ロシアの高度の宇宙開発技術が世界各国から注目され始めた。日本でも之等ロシアの,科学技術をい ち早く修得しようと、殆どの国立大学でロシア語の教師を置き、第二外国語としてロシア語の勉強をさせようとする気運が盛り上って来た。
私自身も昭和39年(1964年)東京大学からロシア語専任教師として招聘を受けJETROを辞めてその後四年間東大教養学部でロシア語を教えることになった。随って私が生涯ロシア語教師として身を立てることになったのは、ひとえにガガーリンの有人宇宙飛行成功に在ると言えようか。
日本とロシアは地理的に隣国であるが、その事が却って領土問題などが絡み、互に戦火を交える要因になっている。20世紀前半をとってみても日露戦争(1904、5年)日本軍シベリア出兵(1918年)ノモンハン事件で関東軍敗北(1939年)第二次大戦終戦直前ソ連の対日宣戦布告(1945年)と現在迄に日本が最も多く戦った国はロシアなのである。
徳川幕府時代に溯っても、カムチャツカに政治犯とLて流刑されていたペニヨフスキというハンガリー貴族が流刑地から脱走してロシア船に乗りマダガスカルに行く途次日本に立ち寄り、ロシア南下の危険性を書状で警告し幕府が驚愕したという事件もあった。(1771年)したがって江戸時代から日本では国民感情としてロシアに対し強い脅威を感じ恐怖感をもっ一方、恐れてばかりいても仕方がない、隣人であることは宿命なのだから寧ろ積極的に貿易畠をし乍ら相互理解を深めるべきだとする考え方もあった。そして現在でも、日本人のロシア観には大別してこれ等二つの流れが続いていると言える。
ロシアはソ連当時は日本の約65倍の土地を所有していたが、その後ウクライナ、ベラルーシ等国家独立があって現在では日本の約45倍となったと言われている。何れにせよ世界一大きな国であるが、その中心はヨーロッパに在るのでヨーロッパはロシアにとって玄関口となる。
一方、日本を含め中国、朝鮮半島などアジアはロシアの言わば裏口に当る。したがってロシア人には日本をヨーロッパより低く見る傾向がある。日露戦争当時ロシアで売られていた日本に関する民衆画(版画)がここにある。出席者に回覧−- その一つは、夜会が催され各国貴婦人達が歓談している中に芸者姿の日本女性が向正面から入って来る画、 之は日本人は成り上がり者として諷刺されている。もう一つはアフリカの原住民でも手を挙げて宣戦布告しているのに、日本人は夜陰に紛れて不意打ちをかけてくる画 之は日本人は油断出来ないという諷刺である。之等を見る限り、当時の一般知識人にとって日本は成り上がり者で、油断出来ない国との印象が強かったと思われる。一方、それとは逆に当時からロシア人の中には日本は理想郷であるという伝説を信じていた人々が多く居たことも事実である。
1898年(明治31年)ロシア正教会の一部の人達が日本のキリスト教信仰の純粋性に憧れて長崎へ移住して来た。(ウラル・コサック、『白水境』を求めて来日)1910年(明治43年)日本はユートピアであると信じ、之とは別のグループである一部のロシア農民がウラジオストックから函舘に移住し、トラピスト修道院の近くで牛を飼い牛乳を売って生計を立てた。併し之等は必ずしも実態に即したものではなかったため多くは失望して、日本に永住することなく帰国して了った。
1932年(昭和7年)「満州国」の建国宣言があった頃ハルビンを中心に白系ロシア人が多く住んでいたが、日本をユートピアと信ずる人達も数万人という規模で満洲に移住していた。
このようにロシア人の中に日本を成り上がり者と見る人達と、日本をユートピアと信ずる人達とが居た訳だが、第二次大戦後日本が復興し、目覚しい経済的発展を遂げたことから、ロシア人の日本に対する評価は大きく高まった。だが今でもやはり、ロシア人には日本をヨーロッパより低くみる処があり、之がロシア人の日本観の現状だと思われる。
一方、ロシア文化は可成早い時期から日本に入って来て大きな影響を与えた。文学作品に例をとると1888年ツルゲーネフの「あひびき」が二葉亭四迷によって翻訳され、1908年「チエホフ傑作集」が瀬沼夏葉により翻訳されている。
1914年にはトルストイの小説「復活」が劇化され中山晋平作曲の主題歌「カチユーシヤの歌」が大流行した。1917年には最初の「ドストエフスキー全集」が翻訳出版された。このようにツルゲーネフ、ドストエフスキ一、トルストイ、チエホフ等のロシア文学作品は日本のインテリゲンツイアを通じ全国的に拡がっていった。
文学作品のみならず、ロシア料理も古くから日本に入って来ている。例えば1878年(明治11年)函棺でロシア料理のレストラン五島軒が開業している。五島出身の英吉という男が戌辰戦争の頃榎本武揚の軍に入っていたが、戦に敗れて函舘のロシア正教会に逃げ込み、ロシア領事舘の下働きをして居る中にロシア料理を会得した。そして戦火のほとぼりがさめてから、英吉はロシア料理店のコックとして傭われることになった。五島軒という店名はコック英吉の出身地に由来するもので経営者は五島とは関係がない。この店は今でもロシア料理店として繁昌しているが最近コース料理のオードブルに出てくるクレープがだんだん小さくなって来ている。元来
ロシア料理ではクレープは直径13、4センチが普通だが、この店では現在7、8センチ位と思われる。開業から120年経っうちに料理の味も形も洗練され日本人の嗜好に合うように変って来ている。
之は単に料理だけでなく文学作品の翻訳にしても日本人の趣向に合わせて読み易いように翻訳されて居る筈である。
私は以前ロシア人に頼まれて朝顔の種程をロシアに持って行ったことがあるが、その人の話では最初の年は日本と同じように大きい花が咲いたが翌年からは年々花が小さくなり、日本の朝顔とは違ったロシア化された花になったとのことである。逆にロシアの花を日本に持って来ても、土壌の違いからか気候条件の違いによるのか花が年々小さくなりロシアの花の原形をとどめなくなると言う。そして文化というものも同じように日本の土壌に合わせて日本化した形で受け入れられ消化、摂取されて行くものと思われる。 つい最近ロシアの新聞の第一面に柔道着のプ一千ン大統領と空手着の対立グループのフヨードロフ氏の写真が対立した形で掲載され、プーチンさんには『ジユードイスト』フヨードロフさんには『カラチスト』の称号がつけられていた。之は対立する二人が日本贔屓とかいうことでは全くなく柔道をやるプーチンさんを『ジユードイスト』空手をやるフヨードロフさんを『カラチスト』と呼んでいるに過ぎない。
併し斯様に日本の文化がスポーツの形でロシアに普及して行くことは喜ばしいことである。只その写真ではプーチンさんが柔道着で靴下をはいているのが妙な具合である。恐らくロシア人としては、素足では人前に出られないという意識があるのであろう。ロシア化した柔道とか空手とかは幾分本国のものとは変える形で取入れられているのかも知れない。併し、いずれにせよ、こういうことが進んで行けば日本とロシアとの間に『北方領土』という難しい問題はあるにしても両国の関係は次第に深くなって日本に於けるロシアの評判も良くなるものと期待している。」 以上
尚、今回は横浜国大名誉教授大崎平八郎氏(昭17学)のご好意により自著『戦中派からの遺言』が寄贈され出席者全員に手渡された。 *****