専門部時代の思い出
            
                                7組 鷲尾節夫

 先づ東京商村大学専門郡という学較の歴史を見ると、大正9年(1920)東京高商が念願の東京商科大学に昇格を機に、予科、専門部が創立されたことに始まる。大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、一橋の校舎は灰燼に帰し、同13年(1924)4月予科は石神井に、専門部は昭和2年(1927)4月国立に、そして同5年(1930)学部も国立に新生の地を決められた。それ以降昭和29年(1954)3月新制一橋大学設立まで国立に存続した。
 われわれは、その間の昭和11年(1926)4月 に専門部に入学したわけであるが、時代は漸次軍国化しつつあり、昭和11年日独防共協定調印、昭和12年(1927)7月蘆溝橋事件勃発、戦火は満州より支那大陸へと拡がり、昭和12年(1927)南京杭州攻略、昭和13年(1928)武漢三鎮占領といよいよ大戦の様相を呈して来た。
 このような時代に、貿易立国の希望に燃えて、三重県津中学より笈を負い上京した。東京という町は、修学旅行で一度だけ来た事はあったが、何分にも18才という田舎者であった私にとって、初めての東京生活は聊か心細い気持もあったように記憶している。特に同級生は東京の中学出身者が多く、彼等の話しをする所謂東京弁の早口には気おくれLて、これに慣れるまでには随分苦労した。 しかし、準戦時下とはいえ、それでも下宿代が1カ月20円位(二食付)、学校の食堂のカレ−ライス10銭、天井20銭という時代で、所謂親爺の脛噛りを満喫して、専らバレー・ポールに専念した毎日だった。3年生の時に、関東高専バレー・ポール選手権大会で優勝した事が、その当時の自分にとっては最大の喜びでもあり、忘れ難い思い出でもある。卒業してからも、学部のバレー・ボール部には入らず、専門部のコーチに専念、結局国立で6年間バレーをやった事になる。中学の規則にしばりつけられた生活から、東京での独り暮し、しかも一橋の自由、自主独立の反骨精神をたたき込まれ、今はあまり辛い記憶はなく、全くよき時代に青春を謳歌することが出来たのを今や亡き親爺に感謝して
いる。また今でも親しく交際を続けているクラスの友人達は、卒業後58年も経った今でも、私にとって人生最大の宝でもあり、78才になった私にとって、戦前・戦後を通じ、最良の時代であったかも知れぬ。今、大学生の孫達を見ていると、果して彼等はこのような感激の青春を送っているだろうかと、遥か彼方から眺めている昨今である。