台北高商はるか
  
                           7組 水田正二
 
 明治27〜28年(1894〜95)の日清戦争の結果、下関講和条約により遼東半島と台湾の割譲を受け(遼東半島は露独仏の三国干渉を受けて返還)台湾は日本領土となったが平和裡に領有されたのではなく、日本領有に不安を抱く島民、匪賊の反乱、抗戦が起こり、北白川宮を最高司令官とする平定戦があった。征討には、近衛師団が派遣され乃木希典台湾南部守備隊司令長官も苦戦した。 北白川宮は遂に戦死(北白川宮は万延元年・1860徳川家に降嫁された皇女和宮の許嫁で悲劇の宮であった)平定された。
 これから台湾統治が始まり、児玉源太郎総督と後藤新平民政局長(のち長官)とのコンビによる所謂「アメと鞭」の統治政策が約25年続いた。大正8年(1919)田(でん)健次郎総督が、これまでの武断統治を文治統治に切り替え一般教育(台湾島民を含めての)を強化した。
 台北高商はこの大正8年(1919)に創立された。赤煉瓦造り2階建の校舎、職員室、柔剣道場はじめ付属施設があり、敷地は校舎6556坪、運動場6556坪、計13,112坪という「日本一ゼイタク学校」と云われた。ビンロウ樹が林立する敷地にハイビスカスの花壇の赤色が南国特有の烈日に眩しく照り映えた。
 昭和10年(1935)4月に入学した私達を驚かしたのが、この年8月、台北高商への配属将校の命を受け赴任挨拶に上京した相沢中佐が永田鉄山軍務局長を司令部で斬殺したニュースであった。代りに着任された鈴木中佐は宇都宮出身の敬虔な神学者であった。
 高商3年間私達は中学卒のクラスと商業卒のクラスとに分けられ、授業科目の時間割当に多少の差があった。中学卒のクラスは簿記、珠算が多く、商業卒のクラスは国漢、歴史、数学、理科の時間が多かった。その他は同一で、経済原論は週3時間、貨幣論、銀行、外国為替、保険、商工経営が各々週2時間等々であった。経済原論の伊大地良太郎教授(後年、一橋大学経済研究所教授)からは、A.スミス、リカルドの古典経済学からケインズ、シュムベーターの近代経済学までを教えられた。(国立に入って経済原論にはすぐなじめた)。いま一人の新里栄造教授は京大の河上肇教授の弟子で、
    Pm
G-Wく    ……G′
    A
から講義が始まった.
高商3年(昭和9年、1934)の頃、中央公論(?)で笠信太郎氏と猪俣津南夫氏との「インフレーション論争」の展開に生唾を飲みこむ思いで凝視したものだった。商工経営の講義の冒頭で「経済理論のない経済政策は政策ではない」と教えられた一言は今でも頭にこびりっいている。
台北高商では柔道か剣道のどちらかを選択正課としていた。他の高商とちょっと変っていたかも知れない。私は中学からのに続いて剣道を選び高商3年で初段の域まで達したが、クラス メートの中には3段の免状を貰った猛者もいて高専対抗戦の補欠にもならなかった。剣道の先生は横田正行師範で戦後は警察庁の剣道指南をされ日本武道連盟の要職を務められていたが先年故人となられた。体操の今井寿男先生はトラック競技からフィールドでのラグビー、サッカー、陸上ホッケーと毎週メニューをかえてしごかれた。お蔭で各種競技のルールとマナーをおばえた。今井先生は巨躯だったので水泳は苦手で、夏の水泳時間は私が代教員をさせられた。
 台北高商第1回卒業は大正11年(1922)で終戦迄の23年間の卒業生は2,058名を数えている。私は17回生(昭和13年、1938)である。諸先輩の中で特記したい方は、11回生(1932)の足利繁男さんである。足利先輩は台北高商から一橋に進み、昭和10年(1935)一橋卒業後三井物産に入社して各地支店長を歴任後、三井物産本社の建設に当り大変苦労されて遂に完工(著書・三井物産ビル建設秘話がある)、副社長に昇進された。その後昭和53年(1978)三井リース事業(株)初代社長となって大いに業績を伸ばし昭和59年(1984)会長に就任して社長職をバトンタッチしたのが十二月クラブ会員の沢登源治君(7組)である。沢登君は小樽高商出身、足利先輩は台北高商出身であるから、南から北への日本縦断大リレーである。私は大喝采を拍したものである。
 戦後、中国政府になってからの台北高商(民国12〜33年)は台北経済専門学校(民国33〜34)、台湾省立法商学院(民国35)、台湾大学法学院商業専修科(民国36)と名称が変り今日に至っている。
 校舎とビンロー樹、花壇は昔の悌を残しているやに聞くのみ。