高松高商時代を回顧して
               
                               7粗 野崎義之
 
 一咋年の春、(神奈川県)江ノ島で高松高商卒業55周年全国大会が開催された。卒業時に170名を数えた同期生も半世紀を越えた星霜の内に、生存者は70名程度に減り、当日の参加者は僅かに20名となり、淋しい会合となった。5年毎の全国大会開催を恒例として来たが次の60周年はどうなるか。幹事も頭を痛めていることと思う。
 高松高商は12番目の官立高商として大正13年に創立された。大正年間に文部省は各県に高等学校、高等専門学較を少くとも一校以上設立することを基本方針としていた由である。四国路については、松山と高知に高等学較、徳島に高等工業、そして高松に高等商業が創設されたのである。
 私が高松高商を志望したのは、出身地が徳島で近いことと、もう一つ、中学時代に高松高商主催の近県中等学校剣道大会に初参加して高松に親近感を抱いていたことによる。
 我々の学生時代は高商入学直前の2・26事件から、入学の翌年の蘆溝楕事件と次第に軍事色が濃くなり、非常時体制に突入したが学園内では平和と自由がある程度享受され、青春の思い出に残るよき時代であったといえよう。特に高松が気候温暖、人情豊かな土地柄で、「玉藻よし讃岐の国は海の風きよく吹く風、熱き血の胸に溢るる若人の集うべき国」と校歌にうたわれている通り、ロマンに満ちていた。
 高松高商時代を顧みて思い出されるのは、寮生活と運動部の活動であろう。紫雲山下の寮に」 は原則として入学一年間は入寮することになっており、親許を初めて離れた生活を思う存分楽しんだものである。文化部の活動として毎年恒例の語学劇や音楽会はいっも立錐の余地のない盛況で高松市民の人気を博したものであった。
 運動部の活動も旺盛で、強い部が多く、水泳部、剣道部、籠球郡を筆頭に各地の大会で全国制覇
を果し正に黄金時代を築いていた。私は剣道部に所属して、各地の試合に参加する機会に恵まれた。昭和13年夏には、国立で開催された全国高商大会に出場した。国立周辺の環境にすっかり魅せられ、商大志望の契機となったのは奇しさ因縁といえよう。
 高松の母校は、終戦直前の昭和20年7月4日の米国B29の大群襲来により一面火の海と化し、開校以来良い歴史と若者の青春の思い出を秘めた校舎が跡形もなく焼失した。終戦後、母校を訪ねても何一つ昔を偲ぶものが残っていないのは淋しい限りである。
 昭和14年春、高松から東京商大へ進学した同悪は古家野寿一(上田辰ゼミ、昭和23年死去)、松井稔(伊坂ゼミ、消息不明)、高島義久(吾妻ゼミ)、野崎義之(太田ゼミ)の4名である。この内、松井稔君が未だに消息不明となっているのは心痛むものがある。彼は卒業後撫順に在住していたが、昭和19年現地召集で東満国境部隊に入隊した迄は判っていたが、戦後消息不明のまま現在に至っている。ソ連軍の侵入状況を考えると東満国境で戦死したのではないかと推測されるが無念でならない。