あの頃は‥‥‥
2組 富安直助〔福岡)
(旧姓石井)
払暁のけたたましい銃声、それは昭和11年2月26日、軍の叛乱−2・26事件-であり大学予科受験の年であった。丁度2月27日に福岡を発ち3月初句の入試に……との予定だったが、この大事件で列車は動かず、スタートを挫かれ大きな躓きを覚えた一瞬である。 間にあった受験の喜びと合格を喜んだ春である。あれから早や60年以上も過ぎたのか、と今感無量である。
4月、入学を許されて小平へ。そして新設なった小平寮の生活か始まる。総べて新鮮で右往左往の毎日の中から先づは習い覚えたバスケット部で汗を流そうと自ら求めていったのである。初秋だったと思う、寮内で盗難トラブルが頻発し、寮生自ら守ろうと輪番で事に当るが、偶々警戒当番の折、教室では物理学の講義--そのー部が期末テストに出題され辛い思い出が目に浮ぶ。さて、夏休みにヒョンな事で大怪我を----暫しバスケは休んでる処へ三年の小島慶三先輩〔現、参議院議員)と遭遇、請われてC組のオールを握る破目となる。午後の講義を休んでは隅田川への毎日‥‥オールで腹切り汚れた川に放り出されたり、艇庫近くの川土手を急ぐ厚化粧の芸者衆と水の中から言い争ったり一日暮れてトポトポと帰寮、食堂の残飯で空腹をいやしたり‥・‥僅かの期間だったが苦しくも楽しい練成の日々であった。この頃鍛えた体力が今日まで自分を支えて呉れたのだと、感謝と楽しい青肯春時代の一コマを思い出す。
小平の檪林はブヨや蛇が多かった。グラウンドで休んでると顔や手足とおかまいなくやられるのに閉口した。その向うは津田英学塾のキャンパスで女子学生が大勢…学習こ励む集団(?)だったらしく英語の講義中はいっも引き合いに出しては小言を言う教授もいたのを覚えている。短い冬休みは帰省せず、そっと女子寮に声をかける輩もいたとか‥‥‥
あの椅麗だった白亜の学舎も消えてゆき、当時の小平村も今や小平市へと大発展ーその中核施設として生れかわり市民にも開放されるとか聞さ及ぶ。立派な施設の竣工を期待したい。 麦畑、芋畑と風に舞い上る土埃りと桜堤、そして学園祭がえりのストームで壊した事もあるあの多摩湖電車の沿線風景などなど。走馬燈のように去ってはまた現われる古くて新らしい思い出は尽きない。