わが母校『山口高商』を回顧して

                                     七組 恒成 勲

 山口高商は勿論山口県山口市にあった。文化12年(1815年)創立の山口講堂がその母体となっている由。高商の学制を採ったものは明治38年〔1905年)に発足し、昭和24年(1949年)山口高校・山口師範・宇部高工などと共に新制山口大に統合されている。しかしながら旧高商の伝統と学風は新制大学経済学郡に受け継がれ、両校の卒業生は単一の同窓会(鳳陽会)に所属している。また在学当時の母校は、本科・貿易別科・東亜経済研究所より構成されていた。その所在地は、山口市のはば中央の台地を占める亀山公園を背景に、その東麓に展開していた。
 先年同地を訪ねた時、旧校舎・講堂図書舘等すべての施設は跡形もなく、その跡地に県立美術舘が建っていたのには少なからず驚いた。 ただ母校の正門前に聳え立っていた樹齢数百年を経たと思われる銀杏の巨木が残っていたのは、大いなる救いであった。今学校の施設を思い出して見れば、講堂が鉄骨造であったほか、本科生用の3棟の校舎は木造の二階建てであり、南北に並立し、一階の中央分に縦貰通路を持った極めて平凡な校舎であった。しかしながら教室内の授業はかなり厳格に行われていたと思う。それは一つには、校長を初め教官の多くが京大出身者であって、多少堅苦しい雰囲気を醸していたのかも知れない。一橋出身の教官は多い時で5名に過ぎず、そうした事情の中で、東京商大に進学した者は、例年3〜4名であったが、昭和14年度は7名に増加した幸運な年次であった。
 クラス構成は5組{A組(中卒第二外国語は支那語)B組(中卒英語)C組(商卒独・仏語)D組(支那語専修班)(中卒と満豪留学生)E組(中卒独仏語)}に分かれ、山口という場所がら学校全体で中国大陸の情勢把捉に努めていたと思う。
 日常生活面では、新入生は原則として全寮制。二〜三年生は下宿住まい。下宿で朝夕食事のできる処もあったが、山口独特の「賄屋」という学生専門の食堂が所々にあり、味・値段で評判の店が当然繁盛していた。いずれにしても随分お世話になったものである。
 ここで序でに山口について少々触れてみたい。山の入り口の集落であるから、山口の名称が生まれた由。市域を拡張して人口13万余。県庁所在都市の中で最も人口の少ない田舎町であるにつけ、目下NHKの大河ドラマ「毛利元就」に登場する大内・尼子・毛利・陶の武将たちが山口と何らかの関わりがあったので、このドラマに対する同地の人びとの関心と期待は極めて大きい。現在の町並みの元を造りあげた大内氏31代義隆は町造りの貢献者として特に尊敬されているようだ。役所・市民が観光開発に懸命に努めているのは、無理もない話しである。大内文化の名残は、常栄寺(雪舟庭)・瑠璃光寺(五重塔)その他で見物することが出来、また、大内塗り人形・萩焼きの流れを汲む陶器などの工芸品もある。昔、休暇帰省の際よく買った山陰堂の「舌鼓」や御掘堂の白外郎(ういろう)などの銘菓店も健在であった。
・・昭和17年2月山口歩兵第四十二連隊(補充隊)に入隊した。そこで前後1年間兵営生活を送ったので、都合合計4年間山口に滞在した訳である。
  『どうか一度L_山口においでま−せ、のんた(のう貴方)!。』終り