我等が母校・白亜の殿堂・横浜高商
7組 岩本治郎
横浜高商は官立最後の高商として大正12年(1923)12月の創設で、翌13年4月、先輩格の高工の仮校舎を借りて開校した。とき恰も大震災の直後、大正デモクラシー昂揚の時代であった。その後幾星霜、同校は地の利、充実した教授陣、秀れた環境、好調の就職状況、更には高専野球全国制覇などスポーツの活躍振りに魅せられてか毎年3月、全国の若者が受験のため蝟集し、受験界では同校は高工と共に高専入試難関の双璧と称せられた。そして校舎は大正15年4月、竣工した。ところは南区南太田町高台の平地1万4千坪に当時としては破天荒の耐震耐火、鉄筋コンクリート白色の3階建(今のマンションの7階位の高さか)延坪一千八百数十坪の所謂独乙表現主義的景観を誇る大建築物として定評があった。勿論、内部の諸施設も完備していた。当時、私は3年間、校庭の一隅の住居から坂を降り坂を登って片道2キロの小学校へ通ったものだが登較の朝には谷を隔てた向う側の山上の校舎が全身、朝日を浴びて白光を発して神々しく、下校の夕方は夕陽を背にしたシル エットが毅然として聳え立っ感があり今猶その光景が、ありありと眼に浮かぶ。
その頃横浜に高専が5校あっていろいろのスポーツに鎬を削ったか就中、対高工野球定期戦は「ハマの早慶戟」ともいわれラジオの全国放送もあって全市のファンを二分し熱狂の坩堝にたたきこんだ。不朽の応援歌「輝く白亜」は全校打って一丸、勝利を誓う心意気と堂々たる白亜の学舎の偉容を物語る。
開校以来、校長以下の教授陣の多くが一橋人であったので自ら明治、大正期の一橋先生達の 学説、逸話なども耳にすることもあって在校生は何となく一橋に親しみを覚え毎年相当数の者が一橋人と相なった。我々同期生は猛勉強の甲斐あって受験者全員に近い16人が合格して自他共に驚き且つ喜びあったことが昨日の出来ごとのように思い出される。
この高商は昭和24年5月、高工、師範と共に新制横浜国大として再出発した。あの白亜の殿堂も時代の波には抗しきれず敢えなく解体の憂目に遭い、新校舎が保土ヶ谷区のゴルフ場跡地12万坪に設けられて各地の校舎はここへ集中した。そして高商は昭和26年3月、第25回の卒業式が閉校式と同時に行われて大戦を挟み起伏に富んだその歴史を閉じたのである。
因に横浜国大は今日、教育、経済、経営及び工学の四学部と大学院、学生数約1万余を擁する中規模の大学に成長した。そして国の内外の必要性に対応して行くため常に組織制度の充実を目指して関係者は懸命の努力を続けていると聞く。又、校名に「国立」を冠するのは曽て新制各大学設置に当り、旧高商×旧高工、旧市内商専(Y専)、旧横浜専門の三者が夫ケ「横浜」の名称を強く主張したので妥協の所産として横浜国大、横浜市大、神奈川大学の校名が生れたのである。