横浜高商のこと
7組 片柳梁太郎
横浜高商の歴史は意外と新らしい。私達が、昭和11年の入学で第13期生であるから、創立は大正末期ということになる。一学年は150名で、その三分の一は商業学校、三分の二が中学出身者で、また約3分の1が地元と東京の出身、3分の2は静岡、新潟、秋田、名古屋、京都、岡山、広島、高知、佐賀等の地方出身で、商大予科とくらべると地方色が豊かである。校舎は京浜急行の南太田駅から桜並木のダラダラ坂を登って海抜50米はどの清水ヶ丘の上にあった。(現横浜国大は程ケ谷ゴルフ場跡地)。学校の広い敷地の外は保土ヶ谷駅に通じる佃が広がる台地で、晴れた日には富士山がよく望まれるので富士見ケ丘とも言った。校舎の前面からは当時大して高い建物がないので、構浜の街が一望の下に見渡され、県庁、税関のハイカラな塔、横浜港、根岸、山手の丘等が素暗しい景観となっている。校舎の本舘は堂々たる白亜の建物で、これを囲んで体育舘、学生食堂、学生寮が配置されている。本舘の前面は育ち盛りの桜が囲み、春はこれが満開となる。校風は当時ガチ
ガチ教育の中等学校を出てきた者にとっては目が覚める程自由闊達で、急に大人になった様な気がした。国際部市横浜という土地柄か、学風は蛮風とはいえず、むしろハイカラだった。中心になる教授陣は福田、上田貞門下を始め静々たる一橋出の先生が多く、また英語を始めとする語学教育はビッシリと鍛えられた。特に英語の西村稠教授は有名で、授業中は「バカッ」と怒鳴る時以外は一切日本語を禁じる厳しさであった。二年になるとプロゼミの原書講読、三年はいずれかのゼミに属してマンツーマンの教育を受けることになる。当時の全国商業教育は東京商大を頂点として、高等商業、普通商業というヒエラルキーの様なものが存在していたので、手法も雰囲気もミニ一橋風であったといえよう。地方の出身者は少なくとも一年生の時は寮生活を送ったが、私達東京組は殆んど横須賀線か東横線で横浜駅に出て通学した。家から学校までは1時間程で通学できるので、後年国立に通うのと差して変らないのだった。
年間行事の中で学生生活の最大のイベントは横浜高工との野球の定期戦で、町全体のお祭りでもあり「ハマの早慶戦」といわれ、NHKの中継放送もあった。当日は校旗を先頭に旗差物を連ね校庭から伊勢崎町の繁華街を通り横浜公園の野球場まで応援歌を歌いながら行進し、試合が終れば逆のコースをデモリながら帰った。そして校庭で壮大なファイヤーストームを行った後、三々五々と街に繰り出した。この日ばかりは放歌高吟も大目に見てくれたが、飲みに行く場所も高工のそれとはそれぞれ縄張りが違ったので大した混乱もなかった。亡くなった木村増三君もブラスバンドの一員としてクラリネットを吹き、自ら応援歌の作詩作曲をしたこともあって想い出の一つである。
高商3年の間に日華事変が起り、時局は暗い局面に急傾斜して行ったが、世の中はまだまだ余裕があり私達の学生生活も大きく歪められることもなかったのは幸いであった。
学校の雰囲気が上述の様であったから、3年間を終ったあと更に一橋に進みたいという者も多く、俄か仕込で受験勉強に2カ月位取り組んだ。結局16名の同期生が進学したが、戦死をはじめ一人二人と消えて行き、現在残っているのは9名になってしまった。誠に残念で淋しい限りである。