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市立横浜商業専門学校
(通称Y専)のこと
7組 鴨田保美
明治8年(1875年)に一私塾として開設された「商法講習所」に遅れること僅か7カ年の明治15年横浜商法学校が同じく私塾として設立された。これが横浜商業専門学校の前身である。 明治21年に横浜商業学較と改称、同25年横浜本町外十三ケ町立となり「Y」の帽章が制定され「Y校」と通称される。大正6年Y校は横浜市に移管され、横浜市立横浜商業学校と改称し、同13年Y校は5年制の本科と、中学卒を入学資格とする専修科(2年制)を併設、その後昭和3年この専修村が昇格されて横浜市立横浜商業専門学校(通称Y専)が設立された。新築落成したY校校舎で授業か開始され、昭和5年Y専第1回卒業生が社会に巣立ったのであった。昭和10年Y専は井土ヶ谷町に移転する。
教授陣にはJ・M・ケインズの「雇傭、利子、及び貨幣の一般理論」を翻訳された塩野谷九十九教授(前学長塩野谷名誉教授のご尊父)が経済原論、田島四郎教授が簿記会計、小山信教授が外国貿易、早瀬利雄教授が社会学、小原敬士教授が経済地理を夫々される顔触れで、少壮優秀な教授が並んでおられた。
こうした学園内の平和な空気とは裏腹に、1931年に満州事変、1932年に上海事件が勃発、1933年にヒットラーがナチス政権を立て、風雲急を告げる世相は重苦しく地球を覆っていたのであるが、学内は諸先生方の指導良ろしきを得て自由主義が横溢し、勉学の意欲を駆り立てられた。こうした中にあって伝統ある校章Yからマーキュリーに強い憧れを抱き東京商大受験を決意した。
幸い晴れて合格し憧れのマーキュリーをっけた角帽を手にした言びと感激は生涯忘れることが出来ない。両親は遥か遠い北満州(現吉林市)で原木伐採を主とした木材業を営みながら私の受験の結果を心配していたと思う。その両親に一橋合格の電報を打ち最高のプレゼントが出来たことはこの上ない幸いであった。
恩師の田島先生は簿記会計に関する多数の名著を出版され斯界の発展に貢献されたが、残念
ながら4年前に亡くなられた。
昭和24年Y専は商学部のみで横浜市立大学として開校、以降、昭和27年医学部、文理学部を増設した。昭和54年に横浜市立大学は創設50周年、創立30周年の記念式典を挙行、昭和57年に
はY校則立100周年の記念式典を盛大に行うことができた。
平成7年文理学部を改組して国際文化学部及び理学部を設置して今日に至っている。なお、左右田博士が第三代会長を努められた同窓会の「進行会」はオールY校出身者を基盤に市立横浜大学OBを含めた同窓会で社団法人である。如水会の活動を目標に活動している。