四組 阿波 博康
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籍を置いていた神戸製鋼は鍋や釜を作って居り、復職の希望も持てず、知人の紹介で神戸の小企業に入ったが、若気の至り と同族会社の悪い面だけがみえて、一年で飛び出し、給料につられて闇会社の様な処で一年を過した。 帰国後二年、段々に南方ボケも元に戻って、これではいかんと気がつき、岩波兄に相談に行った処、色々と彼の会社経営に対する理想を聞かされ、彼の厳父様からも信頼を受け、是非一緒にやるようすすめられて現在の日本ピラーに飛び込んだ次第。 否むしろ拾われたといった方が正しいかも知れない。 正直いって当時の会社は完全な個人経営、僅か四十名程度の小企業で、それこそ御用聞きから荷造、配達、技術屋まがいの取付サービス、クレーム処理迄、何でもやらねば飯が食えない状況だった。クラス会に出席しても華々しい商社マンの話に割 り込む事も出来ず、ついつい欠席しがちとなり失礼を重ねる事が多かった。その中での救いは作っている製品がパテントを持ち、技術的に優れた工業用品で、所謂下請ではなく、独立した商品で全国に市場を持っている事だった。そして社内に常に新 しい製品開発の意慾が満ち満ちて居て、将来の明るさに確信が持てた事だった。 そのバックボーンは永年海で鍛えられた厳父の技術者としての良心、より良い製品開発への執念であり、青年岩波の多角経営、業容拡充への意慾だつたと思う。この様な下積時代の経験はニ十五年を経た今振返ってみると、誠に貴重だったと思う。 営業、経理、人事、経営と割に若い内から大事な仕事を任されて来たが、基礎的な事を油にまみれてやって来た経験は自信となって、五百人の大世帯になった今も、現場第一線との相互理解も割とスムーズに行っているように思う。又前の会社で同族の悪い面を見て来たので、出来るだけ企業を近代化しようと進言し、受入れて貰えたのもよかったと思っている。今は個人経営時代の人は独立したり、定年退職して、小生が最古参となり、いいたい事を云って仕事をしているが、それだけに責任も重く、時には若い組合幹部と夜を徹して激論を戦わし、何時迄こんな事を続けなければならないのかと、ためいきの出る事も ある。 中小企業に半生を捧げてみて、今は全く後悔はない。中小企業は全くの独立独歩、誰も助けては呉れない。政府も銀行も商社、得意先も、我々自身の力でよい仕事をし、業績をあげている間だけしかかまって呉れないだろう。それだけに何としてもより大きなカをつけ、社会に役立つ独創的仕事を残して次代に引継ぎたいと思い、頭髪は白くなったが、未だ若いものに負けずに頑張っている。 和田兄の廿−世紀対策委員会は大いに賛成である。小生は生憎と子宝に恵まれず、家内と二人暮しだが、老後の生活ぐらい何とかなるだろうと楽観はしているが、何とか二人揃って元気に廿一世紀を迎えたいと思うし、会社の仕事を若い人に譲って後、やはり時々十二月クラブの皆さんと会って「此頃の若い奴等は」と勝手な熱をあげたいと思っている。 |