記念文集の原稿を書こうと思って、 日記・アルバム類を取出してみると、学生・軍隊時代だけの分でも日記類が八冊、アルバムが二七冊も出て来たのには自分乍らびっくりした。バラバラとめくって当時を回想すると不思議なことにはそれらを見たり読んだりするとそのことが断片的に記憶の底から鮮明に蘇ってくるが、その前後のことは靄の中に包まれて思い出せない。人間の頭脳の記憶装置としての能力は、無尽蔵の由であるが(一つの記憶事項をマッチの軸に譬えると丸ビル程の収容カがあるとか)、人の名前までも仲々思い出せなくなる程に忘れっぽくなって了った今日此頃のことを思い合わせると、頭脳の中に
しまい込まれた数々の記憶が埋れて了ってそれをピックアップする能力が著しく衰えて了ったのだろう。
それでも頭にこびりついて終生忘れ得ない数々の出来事が人夫々の辿った人世経路に依る相違はあるにせよ、貴重な思い出 としてある筈である。今日は三十数年前の独身時代に立返って、自分乍らの思い出を辿ってその頃の事を綴ってみよう。
一、学 生 時 代
所謂勉学にいそしんだという記憶はさらさらない。映画・玉突き・麻雀・喫茶店通い・小説濫読・旅行など当時の謂わばレジャーを満喫した六年間であった。戦時色が濃厚になって当時の学生狩りをはぐらかす為に親父にせびって衣料の切符制になる直前、背広を四季用に四着作って、ポンユウ宅(特に名を秘す)に預けておいて、学生服を着替えてから夜の巷を徘徊する様にもなった。
映画は当時のパンフレットを綴込んだスクラップ・ブックを辿ってみると、一日の内に三回(日比谷映画劇場−神田書店街
で本を買漁ってあとでの銀座−新宿の喫茶店街をうろついたあとでの武蔵野館)も見て廻ったこともあり、未完成交響楽・舞踏会の手帳・会議は踊る・我等の仲間・望郷・商船テナシティ・・・など数回みたものもあり、その頃はよく一緒にみた高木・高橋(達)・篠原君などと映画論を論じ合ったりした。映画から得た西欧的エスプリが当時貪る様に濫読したフランス・
ドイツ・ロシヤ文学のそれと混り合って若き日の精神的糧となったことは否めない。
学校が休暇に入るとよく旅行をした。その都度、中支戦線で中隊長で戦死した兄が遺してくれたライカで撮りまくり、自分で現像引伸して旅行する度にアルバムが一冊づつ増えて行った。大居・大野両君とリュックを背負って一週間に亘って東北を
一巡して奥の細道近代版を綴り(昭和十四年夏)、学業最後の年の十六年夏休を利用して大居・中村両君と亡友磯村玉三君の墓参に豊橋を訪れ、中村君とは大阪で別れて大居君と二人で近代弥次喜多道中よろしく、広島に足を伸ばして片山君の家に泊
めて貰い、偶然来泊中だった古田土・佐々倉君とも合流して五人袴をつらねて広島の夜の散歩としゃれこんだり、宮島見物を楽しんだりした。その時随分と御世話になった片山君の御母堂と令妹が広島原爆で家もろとも亡くなられて深い哀悼感を味っ
たのは戦後間もなくであった。
広島二泊後、木炭バスにゆられて山陰の浜田に出て石原君の家に三泊し、その間山陰各所を廻り、次弟清二郎氏と一緒に麻雀卓を囲んで、以後阿佐谷の下宿先でも当時同宿遊学中であった石原兄弟とよく麻雀を囲む様になった。(彼が戦病死したのを知ったのは九州の片隅宮崎に軍務中の時であった。終戦間際の緊迫感に在った時、新聞記事をみて吃驚し、その楽しかりし
交友の思い出にと切抜いてアルバムに帖ってあるのもなつかしい)。
予科三年の夏休みには、日本国際協会主催の各大学高専選抜北支満州旅行団(各大学高専より一名宛、十三名参加・団長大平善悟助教授・費用全額外務省負担)に参加し、支那事変勃発直后の戦傷生々しい天津・北京・蘆溝橋・張家口等を経て、日本人が我物顔で闊歩した満州各地を一ヶ月に亘り見て廻り、その間各地で領事館関係・如水会の大歓迎を受けた。
又昭和十五年の夏休には大平洋クラブ会員としてチームを組み、大野・矢守両君に太田君(昭十七)を加え、約二ヶ月間に亘ってフィリッピン・香港・上海旅行に出かけた。その間、総て出先では如水会の先輩の厄介になり、マニラでは約二週間丸紅(前身名大同貿易)の社宅に泊り香港では十日間三井物産の社宅に泊めて貰って、宿泊・食費は殆んどかからず、昼食時は各社の諸先輩をたづねて御説拝聴に伺うと必ず食事を奢り乍ら話してくれるし、夜ともなると社宅の先輩がキャバレー・ダンスに引張り出してくれる始末で、今から考えると甚だあつかましいタカリ方をしたものだと内心忸怩たる気持になるが、反面台湾銀行香港支店長(名前は失念したが如水会の先輩ではなかった)の処へ経済事情聴取に伺った処、本人はチョンガー勤務であった為内地からの若者大歓迎とてなつかしがって、その晩は香港中の日本芸者を総揚げして大広間を借切ってのドンチャ
ン騒ぎとなり、しこたま呑みつぶれた挙句気に入った芸者を二人づつ両脇にかかえて支店長社宅に自動車を連ねて押かけ、更にのみあかす仕儀となり、足をとられた為かベッドに足が上らず翌朝目が醒めた時はベッド下の板の間にころがって居る始末であった。
此の様な無茶旅行の途次、マニラ-香港間、日本郵船熱田丸の船中で偶々ボルネオ方面旅行から帰国中の五組の小池・井上両君に相会したのは洵に奇偶であった。(その両君とも今は亡いと思うと奇しき縁と云う外ない)
当時の海外旅行が船舶に限られ、何日間も船にゆられて海以外何一つ見えない海原の上で、何することもない精神状態に置かれた一人の若者が、皎々たる満月が海上に青白く金波銀波を織りまぜ照り映える甲板の上で、夜光虫の光が船の通ったあとに尾をひくが如くキラキラするのを眺め乍ら、ロマンチックな気分になって自分の将来のことを考えたことが強く脳裏に焼きつけられ、就職時に何を措いても船会社に入りたいと心に馳られても不思議ではあるまい。私が就職時に他の会社には目もくれず船会社だけを志望した動機は此の船上でのロマンチックな印象がそうさせたのかも知れない。この様にして私は日本郵船に入社した。
二、軍 隊 時 代
日本郵船に 入社して日ならずして現役召集となり十七年二月一日東部六四部隊(佐倉)に入隊した。十二月クラブでは二組の佐藤(幸)君と二人であった。四月には幹部候補生教育の為離隊したが、皮肉なことには兵科将校を望んだ私は経理に廻され佐藤君は経理将校を望んだに不拘兵科に廻されることになった。
小平の陸軍経理学校に入ると十二月クラブの連中はワンサと居た(十二ヶ区隊約七〇〇名中二九名)。私の区隊だけでも石井・菅沼・宮崎(豊)君が居り、宮崎君とは同室寝台も隣合せであった。(その彼も今は亡い!) (ちなみに経理学校九期生会は毎年九月九日全国規模で東京に集るが、全国大学高専卒を網羅して居るので仲々バラエティに富み、十二月クラブとは又違った持味があつて仲々面白い。又その会には十二月クラブの連中が多数参加するので十二月クラブの延長の様な気もする)
経理学校を出ると軍馬補充部に配属となり(陸軍大臣直轄)当時の本部長(サイパン陸軍最高司令官として玉砕自決した斉藤義次中将)から北海道と九州の支部のどちらがよいかと云われて、寒い処は苦手だから暖い九州の方を希望して宮崎県高鍋支部に廻された。夕闇迫る頃駅について部隊迄約六キロ、迎えに来た当番に尻を押上げられて生れて始めて馬に乗ったが、それが病みつきとなって、金庫の鍵と出納印は主計下士官に預け放しで往復の通勤は勿論のこと午前と午後に馬を換えて乗馬訓練に熱中した。民間馬の購入・放牧・調教・軍馬補充が主任務なので、将校連中は選りどり見どりで良い馬をかかえ込み、軍司令官用乗馬の補充命令が来ても精々下士官乗馬を廻せば良い方で師団長クラス向けは兵達の乗馬を補充するのが普通であった。お蔭で私も流星四白式(馬の鼻筋が白く、足首が四足共白い馬が馬品格別とされた)の馬を三頭かかえ、通勤用、乗馬訓練用、牧場見廻り用など、乗り換えて乗り廻すことが出来、障害飛越なども兵科将校並みの腕前に達することが出来た。当番を従え馬上ゆたかに人民共(軍隊用語では地方人)を見下す気分は亦格別のものであつた(軍人が威張りたがった心情宜なる哉)用地は部隊用地の外に放牧調教用、馬糧自給農耕用として数千万坪の広さに亘り、牧場の一部を割愛して落下傘部隊の
飛行場用地が出来る程の広さであった(バレンバンに降下した落下傘部隊は此処で訓練された)。
従って牧場を見廻るには丸一日がかりのこともあった。それをよいことにして牧場を見廻るからといって馬で町に下り、和服に着替えて映画見物とシャレ込むことも屡々あった。それ故本人の部隊長から「兵達は鈴木部隊長と云いよるぞ」と皮肉られる一幕もあった。
支部は明治以来からあったので主計は謂わば街の名士であった。それ故毎日の様に町長・警察署長・税務署長その他街の名士から麻雀のお呼出がかかって来た。賞品としてその頃民間では余りロにすることがなかった酒保品を提供したので、寧ろそれがねらいであったのかも知れない。時には徹夜になることもあり翌日不眠の状態で部隊に出ると、軍医に頼んで医務室に寝かして貰い、当番に云いふくめて部隊長から呼出があっても主計は熱発して医務室で休養して居るからとタプらかすのも再三であった。(その為に麻雀に実力がついたと云われてもやむを得まい)。
然し乍ら、一事が万事此の様にのんびりして居た訳ではない。軍馬の栄養に必要な塩分供給増大を計る為製塩計画を樹て、海浜に塩田を作るに必要な土砂運搬馬車を作るのに兵達の中から大工経験者を募って荷馬車組合に徒弟奉公式に住込ませ、牧場から木を伐出して木材組合の材木と交換して数十台の荷馬車を製造、牧場の土砂運搬に全馬全兵力を挙げてアッと云う間に
塩田を作り毎日塩を五俵程生産出来る様になった。
又洗濯石鹸も作って兵に配給し、その代り軍支給の石鹸は兵達の帰休時自宅に持帰るよう認めたので兵達からも大変喜ばれた。砂糖も自給計画を樹て、砂糖きびの苗裁培までしたがこれは終戦となって遂に実を結ばなかった。
私は部隊着任以来、消費節約の意味で消耗品の購入を一切中止した。自分の靴下は当番に何回もさしこ式につくろわせ一年間に二足で済ませた。そのポロポロになって雑巾の様な靴下を部隊長に渡し、兵達を全員集合せしめて部隊長の口からその必要性を強調せしめその実物見本を示さした。然し乍ら兵達には月二足支給して不使用の靴下を石鹸同様自宅に持帰ることを認めることを忘れなかった。用紙類は倉庫から古書類を引張り出して来て、裏紙利用した。経理検査の時は、わざと殊更黄色に変
じた反古紙で経理概況書を綴り報告したので、経理部長も流石吃驚したらしく数字的実績検査結果を見るに及んで、今迄検査 した隷下部隊にはこんな部隊はないとて激賞し、検査結果の講評では成績抜群とて賞状を授与される破目となって部隊長からもえらく感謝された。本部より赴任時、前掲斉藤中将から該支部はいつも最下位の成績だから建直してこいと云われ勇躍着任漸くにして名誉挽回面目をほどこすことが出来た訳である。
二十年に入ると米空母艦載機が連日空襲に飛来する様になり、漁船も出漁しなくなったので魚も兵達のロに入らぬ日が続いた。そこで兵達から漁師を募って網元とも交渉して空襲の合間をみて出漁した。魚は面白い程獲れ、兵達では迚も食べ切れないこともあった。そんな時は食べ切れない分をトラックに満載して旭化成延岡工場に持込み、常務工場長と掛合って石鹸製造用の苛性曹達と物交した。先方も大喜びでこちらも大助かりであったが、よもや漁師や石鹸造りの仕事までやらねはならぬとは思いも及ばぬことであった。
終戦直前になって南九州が米軍予想上陸地点と目されたので、部隊は急遽数千頭の馬共々熊本の山奥、熊本師団大矢原演習場廠舎に移転することになり、六月より開始して約二ヶ月有半、食牛五〇頭、乳牛一〇頭を飼育することを手始めにして三町歩(九千坪)の農耕地を開拓して食料の自給自足を図らんとした矢先、終戦の令が下り、直ぐさま原隊に帰らねばならなくなったのはまことに皮肉なことであった。その間熊本で同じ経理学校出身の三組の野田君に偶然再会し、又宮崎では兵科将校と
なって軍服姿で部隊の先頭を指揮行軍して来た四組の田中(仁)君に行交ったのも、今となってはなつかしい思い出でもあり、老化した記憶装置でもボンパッと飛出して来る鮮明な印象である。
終戦になって宮崎の原隊に全員復帰しても終戦のドサクサの為本省からの連絡は杜絶えて了った。部隊長は職業軍人だけに軍隊は解散しても、厖大な土地があるからトラックターに依る大農法式農業をやりたいと云い出し、(笑う勿れ、当時の職業軍人の頭脳構造はそんな程度であった)、私にも東京に帰らずに経理の仕事を担当して貰いたいと懇願する様な始末、内心帰心矢の如くではあったがこれが見棄てておかりょうかの侠気も手伝って、早速当時二十日市にあった西部軍司令部に出掛けた。
テンヤワンヤの軍司令部に飛込んで中佐参謀に計画を説明すると、先方も大乗気になつて俺も仲間に入れてくれと云い出し、それを快諾すると即座に九州南部に布陣していた出先師団に対する参謀命令を発行してくれた。その参謀命令に基いて出先師団から早速牽引車五台にガソリン燃料が満載されて届けられた。そのお土産に免じてやっと御役御免になり復員してなつかし
い我家に帰ったのは十月も終りに近い頃であった。
用地が国有財産としてとり上げられたのを風の便りに知ったのはそれから間もなくであった。その他のことがどうなったか はわからない。 (終り)
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