四組  所沢 誠


  私が教育した初年兵を率いてソ連に入ったのは昭和二〇年九月上旬であった。繰上げ卒業で昭和十六年十二月に卒業、翌年一月十日に日本郵船株式会社に入社徴兵検査で第二乙となったので昭和十八年八月廿日頃まで会社に出社し八月廿四日応召により金沢の輜重兵聯隊に入隊し八月末に渡満した。配属された部隊は第五軍直轄の輜重兵独立第四六一二部隊で長野、石川、 富山の郷土部隊で現役で苦労した人達とはうって変った至極のんびりした部隊で高等教育を受けた者は初年兵の内五人位しか居なかった。此の点で幹候になるまでは部隊全体から非常に親切に遇され今になっても悪い印象はない。ビンタを張るなど思も及ばない部隊で中隊長の意志が徹底していたと思われる。軍隊生活二年、捕虜生活三年の間、入ソ直後に初年兵に一回ビンタを張ったが此の初年兵とは今もって往時を偲びつき合っている。軍隊、捕虜、帰国の間、今考えてもよく指導的立場から 遊離しがちな古兵初年兵を団結させ得たか、私は幹部候補生としての集合教育を、九州の部隊で受けた。偶然にその独立大隊 第七〇〇〇部隊の第六中隊の小隊長に六組の吉川良秋君が居り、側面的に種々面倒を見てもらい本当に有難かった。紙上よりお礼申上げる。牡丹江の士官学校卒業時には私の原隊は、中支に出陣してしまったので教育を受けた第七〇〇〇部隊の第一中隊 に配属されたその縁がソ連から帰国後も続き、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄の五県にて七〇〇〇会が毎年開かれている。

  宮仕えの身分では仲々大会に出席は出来ないが東京在住の人々とは、少くとも年に一回の会合を持つよう努力している。時間が経過するにつれて苦しいつらい思い出も次第に美化される。終戦帰国後廿有余年を過ぎ、戦友が集まると過去のことよりは矢張り現在の生き方に話が集中し、生命を託した者達の気持が滲み出て心の暖まる思いがする。将来二度と此の様なことは起ら ないと思うし、起こしてはならないことと思う。内地に居た人々も貧困な苦痛な生活をしたが、捕虜よりはましではなかったか、自由を奪われ、精神的にも何等の寄り処も無くしそれこそドン底生活である、帰国後如何なる困難な状況でも遥かにそれよりはマシである。昭和四十年代の日本を見ていると、果してこれでよいのだろうかと、一抹の不安すら覚える。太平洋戦争に突入する前の吾々の学生生活は今の学生の生活よりは遥かに次元の高い精神的に豊かな時代を反映していたのではなかろうか、過去を追憶すると同級の大迫、落合、南川、岸等の面影が偲ばれる。英才、秀才は矢張り短命か、彼等有能人の活躍が見 られなかったことは返す返すも残念である。健康であることは何にも増して本人の宝である。此れからの人生も精神的にも肉体的にも健康で過したいと思っている。ほんの少しゴルフのスコアーを縮めたいと思うし、ほんの一寸でも音楽を聴き、 絵画を見る余裕が欲しいと思う。 家族も親子四人健康で日々を送っているのが幸せと云うものか、八月十五日終戦記念日に(私の終戦は八月十八日)
 

 

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