七組   坂本 保

 東京−大阪−東京−長崎−下関と時の流れに押されるように転生を重ねた。

 今、孫をえた年代に達して痛感することは、時の流れの早さ・・・。その割には自分が未だに若いと云うことだ。未だほんのこの間、大学を出た許りのような書生っぽさを、一面には失っていないと云うか、そう云う尻っぽをぶら下げて居ると云うか。周囲を見ると同じ年輩の人で何と老いた人の多きことか。

 併しそのくせ、肉体の衰えはどうゴマ化しょうもないのを感ずる。五十年も使えば、人間と云う機械も多少はガタが来るのも己むを得まい。更年期症状に対応する食事療法を第一に心がけて過している毎日である。

 先年上京した際、久し振りに国立へ行った。実は息子が一橋大を卒業すると同時に学生時代の女友達と谷保天神で結婚式を挙げたので慌てて夫婦で上京したのだったが・・・。私の学生時代、卒業直前に結婚した友人があって、(どうも失礼)まぁもっと落ち着いてやったらよかろうにと思った記憶があるが、まさか自分の子供が同じような場面を展開するとは・・・。
 
 世の中は面白いものだと思った。つまり私の中にも実はそう云う要素が潜在していたのだなと思い至った次第である。
 
 国立は車の往来こそ昔とは比較にならず騒然としていたが、都心を離れ、矢張り学園らしいしっとりと落ち着いた、たたずまいであった。兼松講堂や図書館や池が昔日そのままに旅情をなぐさめて呉れた。角帽の時代が昨日のことのように目に浮かんだ。学生達は今では無帽で制服らしいものも着て居らず、どこの学生か、一般のサラリーマンか判別し難い風態であるが、然し、思いがけず、整然と学究的な雰囲気をもって登校していた。
 
  太平洋戦争突入直前の数年間の大学生活だったが、今はない「深山大沢生竜蛇」の食堂の懸額も思い出され、思わず図書館に入って卒論カード等引き出して若き日を偲んだものだ。私は、二十年五月二十七日新宿の柏木で新婚の家を、応召中、故郷下関の家も皆んな空襲で失ったので、当時のアルバムも一切焼失し、思い出のよすがとなるものに乏しいのだが、倉卒の間に も静かに想念をめぐらせば、いろいろの事が瞼の中に蘇ってくる。若さの名残りみたいなものを未だにぶら下げて居るなどと 云い乍ら過ぎし日のことをあれこれ回顧し懐かしがるのも老境に入りつゝある証拠であろうか。

 何か一言だけ書こうと思いつ、筆をとったが際限のない文章になりそうなので、とりとめもないことを書いてしまったが欄筆する。在京諸兄の御健斗を祈るや切なり。 (下関にて)