五組 大野 正庸
|
||
今から約二七年前の丁度今頃、私は花小金井の片隅で米軍の機銃掃射を避け乍ら、幹の太い樹木を探してはその蔭に身をかくして負けいくさの後にくる世の中と自分の生活だけを一心に考える情けない毎日を送っていた。学校に残っている友人達は、いろんなデマの乱れ飛ぶ中で、夢も希望も打ちひしがれ乍らもとに角、就職試験も済んでやれやれという頃であった。 そして間もなく予想しつつも惧れていた敗戦の日がやって来て、私はその日のうちに荒廃した社会の中にほうり出されてし まった。案じていたことが現実のものとなり、学校は未だ卒業していない儘私は途方に暮れて茫然自失、所謂虚脱状態の中で 故郷の茅屋で何することもなく半月を過した。 然し年令も二〇代の半ばをすぎ、親父も出征中にこの世を去ってしまいいつまでも他人や兄貴の世話にばかりなっている訳にも参らず、とに角卒業だけはしておこうと学校へ出かけて行った。 夢を抱いて入学した東京商科大学は東京産業大学という泥くさい名前に変って些か抵抗を感じはしたが、先生方のお情と学校当局の計らいで曲りなりにも如水会の一員に加えて貰った。昭和二〇年九月二二日のことである。扨てこれからが大変である。就職したいにも、既に就職の決定した友人達さえ採用取消の憂き目に遇って、右往左往している時である。所が幸か不幸 か、ある炭鉱会社が採用するとのことで前後の考えもなく入社試験を受け、面接の際は臨時軍事費がどうのこうのと散々しぼ られ乍らも炭鉱は猫の手も借りたい時であり、めでたく採用が決定し、北海道に赴任することとなつた。ここから私の前後十五年に及ぶ北海道生活が始る訳である。 大分前置きが長くなったが、このようにして入社が決るとすぐにも出発ということになり、衣類、寝具の調達、切符の手配 に相当手数がかかったが、十月十三日に家を出て十月十七日にやっとのことで就職現場にたどり着いた。何しろこの間五日を要した訳で、朝、羽田を発てばその日の中に現地に着くことの出来る現在と思い合せて誠に今昔の感に堪えない。 道中五日間の旅では何ともお話にならない経験もし、又人の情に救われた憶い出等々は未だに脳裏を離れずにいるが、これは又の機会に譲ることにして北海道の思い出の一端に触れることにする。 十月も末になると、北海道はそろそろ雪の気配が感じられるようになる。炭山に於ては尚更である。降ってはとけ、降ってはとけして十一月の末になると愈々根雪となり、長い冬がやってくる。道産子にはスキーのシーズンであるが、私のような突然入りこんだ他国者には何とも鬱陶しいことである。毎日のように吹き荒れる粉雪、スキーを手に入れようにも品物はない。 いきおい、軍隊時代に習いおぼえた酒に手が出る始末。とは言ってもまともな酒がある訳ではない。時たま手に入る薬用アルコール、飛行隊が山中に埋めたというガソリン臭いドラム缶入りのアルコールのお世話になる訳である。こんな毎日が続くう ちに正月がやってくる。長い戦争がとに角終り、人夫々に苦しみと悲しみを心の底に秘め乍らも、やれやれという気持で久し振りに迎える平和な正月、新しい希望と期待をこめた正月ということで、各家庭では出来る限りの準備をした。そして我々のような新参の寮生も、一部の親しい人々から家族の一員のようにして心温かく迎えられた。大晦日の晩から前祝いをやって除夜の鐘が鳴る頃には杯盤狼籍、皆すっかり出来上ってしまって足の踏み場もない始末。喰う物は、敗戦直後と言い乍らも、流石に北海道では暫らくお目にかかれなかった品々が比較的容易に手に入り、山海の珍味が揃っており、数年間ロクな喰物にもありつけず意地汚なくなつた胃袋には豪勢そのものであった。そうこうするうちに三・四ケ月は過ぎて雪の中から縁の下萌がちらほら目に映る頃になると、又しても人々の心は落着かなくなってくるのである。 この頃忘れられないものに生鰊の焼きたての味がある。一般には上等の部類に属さないものではあるが、アブラののりきっ た新鮮なのを御飯代りに―北海道でも米は少く時々こういうことがあった―二、三匹喰うと結構満足出来た。 そしてこの後に運動会、盆踊りと続いて一年が過ぎるのである。
|