六組 渡辺 健


  私は常に自分に対して、「自己の個性に忠実なれ」と云い聞かせています。然し、このことは、とくに私にとっては、実に難しいことなのです。ふり返って、充分にとまでは云えないまでも、六〇パーセント位は、これをなしえたと思われるのは小学校の頃と一橋時代だったと思います。そのような意味でも一橋の時代は実に懐しい。今でも夜眠れぬままに当時を思い、静かに瞼を閉じると、色々のことがはっきりと浮かんで来ます。小平、予科の禅堂、国立、国分寺、中央線の沿線、東中野、 中野、新宿、それに浅草、向島、本郷、神田、銀座・・・と。

  戦後、二十六、七年頃テーベがよくなってから、とくに強く酒にひかれるようになったのですが、これまでに、今でも一番気持ちよい酔いだったと思うのも、予科の頃、何かの用事で銀座へ出て、その帰り一杯やったことです。国分寺まで帰って来ましたが、例の多摩湖線はもうありません。たしか二月頃だったと思いますが、煌々たる寒月の下、一面の銀世界、武蔵野の中を、昔ここで若い娘さんが悲恋の身を絶ったと伝えられていた松の木の下を通って寮に帰ったことをはっきり覚えています。若かったし体調もよかったのでしよう。酒もよく、 また適量だったのでしょう。雰囲気は勿論万点、精神的なコンディションもまたよかったのでしょう。それに、何でもないことなんですが、妙に印象にのこっており、何かにつけて思い出されるのは、夕靄に電灯の灯がうるむ国立一帯の情景です。駅前のエピキュール(今はなき牧野英一先生が「生意気な名前を」と云っておられた)で一人静かにお茶を呑み乍ら窓外を眺めている。静かに流れているのが、メンデルスゾーンのコンチェルトでした。

 所謂学窓を出て以来の私は、色々と母校の名を汚し、恩師、先輩、クラスメート、さらに後輩にまでも、何かと有形無形のご迷惑をおかけし、実に恥しい限りでした。様々のことがありました。然し、辛うじて私が今日の状態を保ちえているのは、他にも色々あるでしょうが、何かにつけて、一橋と云うものが心の支えになって来たことは間違いないことです。これからは何よりも体を大切にし、人の世のために、少しでもお役に立つような生涯を送りたいと思っています。十二月クラブの皆さん 今後とも何かとよろしくお願いいたします。諸兄のご健康とご幸福を祈りつつ。