第一部 象牙の女達
昨年の暮、正確に言えば昭和四十六年十二月八日の午后、私は一寸した都合でジングルベルの響き始めた銀座をホっつき歩き某デパートの中にいた。午后四時に家内と出会う時刻まで大分時間の空白があることが久し振りに私を時空の制約から解放
し雑踏の中にいながら見知らぬ人達ばかりの気安さがかえつて私を孤独にしてくれた。別に買い物の目当があったわけでないこ とも不思議な自由さであつた。ガラス越しに覗いた和光の大時計がもう少しで午后二時になろうとしていた。こんな何気ないことが脳裏に刻み込まれていることも余程感覚が新鮮さを取戻し或いはその時は異常なまで無心になっていたのではなかろうか。あの時、昭和十六年十二月八日。いま私は雑踏の中にいてタイムトンネルを逆行してゆく自分に抵抗を感じないまま回想の波の起伏がそのまゞ現実と化して来るような感覚に溺れ込んでしまった。よしやそれが幻覚であろうとも。
今では古錆びて、近所の街並の中で若干荒廃をさえ感じさせる母校の建物も当時はパンテノンを型取った講堂から、本館まで手入れの行届いた優雅な粧いをこらしていたと思う。
その一角、天井の高い学生食堂に私達はいて午頃ではなかったであろうか。大東亜戦争宣戦布告の詔勅を聴いた。第二次世界大戦を当時はそう呼んだのである。
これで何もかも変る。いや否応なしに私達の軌道がきめられたという風に感じたのは私だけではなかったであろう。
今は亡き松本信喜君(彼は私がさ迷い歩いたこの日から二日後に逝去されたのであったが)、故岸秀直君、故大迫千尋君、 秀才にして既に亡きこれ等の畏友の外に数名の級友、先輩、後輩が或いはテーブルに手をおき、或いは立ってコーヒー茶碗を
口に運ぶ手をとめ、又或る人は謙虚に角帽を手にして、夫々に思いを込めてラヂオ放送に聴き入ったのである。
そして私はあたかもあの瞬時が目の前に再現される、ヒタヒタと押し寄せてくる感情の高まりの中で、フト気付けば雑踏の中にいた。
あの時から既に三十有余年。いつか白霜の気にかかる年頃となり、長女は理大を卒業して一年余りで昨秋嫁いで行った。も
とより本人の希望によって行ったのである。そして東大寺に程近い郊外に住み、週に一回は電話してくるようである。妻はどこから見ても平凡で特に不仕合せとは云えまいが、余り幸福とも言い得ないであろう年輪を感じさせるホワイトカラーの妻である。まだ長男が高校三年。小金井に棲むようになつたのが縁で桐朋高校につい先頃入学したと思っている中に来年は又受験である。恐らくこの子に手がかかる中は妻は元気でいるであろう。
これから会うことになっている妻に思い到った時、日頃当然として来た多くの些細なことについて妻へのいたわりが欠けていたことが、如何に多かったかと切ない気持になった
大学卒業の頃からの年月、そして在隊中結婚して以来の妻との歳月について私は、振り返るには余りに遠く霞む想いと、そのくせふれれば血の出そうな痛みを心に覚えたのであった。それから何故か余り係わりのない一人の女性。妻より少し若いが
同じような風雪を冒して来た女のことをフト思い浮べた。何故か分らない。左程私の側で仕事を共にし、公私について語り会う機会のあった人ではあるが、立派な経歴と地位を持つ人の妻であった。彼女の父は朝鮮総督府の高官でその令嬢として育った若い日々は幸せであったと語っていた人である。やがて戦禍の後に引揚げ、結婚し、長女長男を得て標準的ホワイトカラーの妻であり、本人の会社勤めが生活の為ばかりではなかったというのも事実であろう。
而し終戦後の家庭生活。嫂に仕え、二児を育て、激動する世間の風潮と、断絶した山陰の旧家の家風の酷しさは並のものでなかったようである。そして長男が私達の後輩であったことも奇しき廻り合わせであった。
この人のことが想い浮んだのは長男に嫁ぎ、私の妻と同じように嫂に仕え、終戦後の家庭生活の中で如何に苦難の日々を送ったか。そのような心情について妻が私に語ったことなく、いつかこの人が述懐したことがむしろ妻の声として私の切実な共感を呼んだからであろう。心なしかその人のうなじに人生の疲れを見たその日、それはあたかも妻の姿のように感じたことを想い起こしたのである。目立たないで、しなやかで、妻であり母である年輪のほのかに美しい女達。
郷愁は遠く哀しく甘きもの 象牙の肌目のほのぼのとして
そして私は相変らず憧憬し、時に憔躁し、又惑い乍ら今日を生きている。 自動ドアが眼の前に開いて私は我に返った。時計は四時に間がない。私は雑踏に再びもまれ、黄昏れようとする街並を約束
ロビーへ急いだ、。
第二部 星 辰 輪 廻
学生時代と云えば緑濃い赤坂山王台の中学校時代。それにもまして武蔵野の自然にはぐくまれ新設の予科寮に起居した日々 のことどもであろう。
元来私は一人っ子である上、下町の商家に育ち、内弁慶の淋しがりやであったから、この寮生活に馴じむまでには大分時間がかかったが、成長の過程に都塵から隔絶したあの様な日々に恵まれたことは思いがけない青春でもあったと感謝している。
東京に生れ、下町で幼少を過ごし、少年期以后房州の海と信州の山を夏休みの糧としていた故郷のない私の心の底から、「故郷の春」という自己探究の片鱗でもあった寮歌が生れたのはこのような過程によるのであろう。
その后、上田貞次郎学長の逝去に遭い、高瀬荘太郎学長のもとで学部の生活を送ったのであったが、その間に故上田先生の記念碑の建立を企画し、和田一雄君等と朝倉文夫先生を訪れることになった。上田学長は若き日、ロンドン留学中は小泉信三先生と下宿を共にされたこともあるとか、又私達学生には君達は蒼白いインテリではない、赤黒いインテリであってほしい等
とユーモアの味わいある談笑の間に、いまも忘れ得ない示唆を与えられたこと等想うにつけ、あの御風格を以て更に長寿を全うしておられたらと学園の伝統のために私達の期待するところは大きかったのである。
そして私達が朝倉先生にお願いした結果は、学生なるが故に、全くブロンズと大理石の礎石の材料代に等しい謝礼で先生の胸像を飾ることを得たのであって、いまもその像は国立の母校のグランドを望む校庭の一隅に、学園の春秋を黙々と見守っておられる筈である。
当時、朝倉邸は日暮里にあり、上野の杜の幽遂の影深く、三十畳にも余る応接間が浮御堂のように大池の上にかかり、床下 に金鱗の鯉が出入するさまが、今様のきらびやかさでない建築の閑雅とマッチして優雅にさえ感じられた。
聞くところでは、吉川英治氏等の文人墨客が絶えずこのサロンに出入し、戦陣訓等もそれらの人達によって、或いはこゝで 起草されたのではないかとその頃の話である。
角帽に制服の私達が訪れると、折ふし接待に出た方が後で分ったのであるが令嬢の摂さんであった由。色白でスラリとした印象がその頃の立女形の福助(先々代か)に似ていたようで、いまでもフト思い出すことがある。
その后、山寮を建設する計画を立て私達のメソバーは夏休みを返上して信州路へ旅立ったが、この時は水田洋君、和田一雄君の外に一期若い下元進助君も一緒だったと思う。この外に卒業記念アルバムの編集等も抱えて多忙な夏休みの数日間、私達は小海線に乗って緑濃い山河をいくつか越えてたまたま部落に民宿したこともあつた。
そういう山家の少女が全く黒っぽい上衣とついのモンペ姿で、無造作な束ね髪に一片の脂粉の粧いもなかったことがかえって黒い瞳の美しさの故に、そこはかとない旅情と、都会人の哀愁が交錯する不思議な情緒を味わったことをつい昨日のことのようにも思う。
いま戦火をくぐり、濁世の齢いを重ねた私がこのような些事を鮮明に想い出すことは人間のミステリーなのでしょうか。
私達が妙高の山麓に漸く恰好の地を見つけ、野尻湖畔に余暇を得て清遊したのはそれから間もない頃であったが、ヨットハーバーやボートハウス、それに外人の子供達との戯れなど。当時として清新なレヂャームードであったと思う。
山の背を分けて夏雲の影が通り過ぎて行った山寮の地は今どうなっているのだろう。さあれ懐しい想い出の山河ではある。
然し昭和十五年の初夏を迎える頃、日華事変の戦火拡大のさ中、学園に思いがけないショッキングな情報が流れ、やがてそ れは現実の暗雲となつて私達に覆いかぶさって来た。
当時一橋会は、如水会に対する学内の自治組織であり、学生の学内活動の自由と自主性を尊重しながら学校当局とも不可離の系体を保っていたので、社団法人一橋会と呼称し、学長を会長に、教授及び学生から同数の理事が出て会務を運営していたのである。而も運営そのものは殆ど学生に委されていたのである。又教授、学生共に一人一票のボートを持っていたことは学園として当然であると私達は考え
、当時の官立大学としては進歩的でもあり、自由の学園の美名に価する何かを私達は身につ ける努力をしていた筈であつた。
然るに文教の府はこの組織が自由主義的であるという理由で暗に解散をうながし、ついに解散せよということであった。私達は学園の伝統の中で当然として来たこと。自由と自主の建前を以て公私に亘って秩序整然たる学生生活を営み何ら批判される余地のない組織を解散せしめるという事自体、理解出来ないのであって反発する姿勢をとらざるを得ないのであった。
高瀬学長、太刀川学生課長、大場事務官、当局の方々に私達は再三要請の撤回を願ったが事態は一向に好転しないまゝ重苦 しい梅雨期に入った。そんな夜半、国立の官舎で私達は学生課長と談論し
、帰宅する暇もなく翌朝登校するような日も少なくなかった。教授方の中には先輩も多く我々の理解者も少くなかったが故太田可夫先生、故杉本栄一先生はその中でも特に心痛をおかけし、陰に陽にお世話になったと思う。
勿論、他の方々が理解されなかったわけではないが、現在の観念では想像し難い理外の要因。即ち戦争遂行中という名分を盾にとった国家権力の動向が、学園の存亡をかける不祥事態をも招きかねないという憂慮ともなり、硬軟の姿勢の分岐点となったのであろう
やがて夏が終り武蔵野に村雨が降りしきり、荒涼たる冬枯が訪れた。昭和十五年十二月末。中野城山町の杉本邸の一室。深更の灯影を囲み、私達は学園の法燈の消長をかけて、当然後世の裁きを受けるであろう立場を意識する心境を噛みしめながらついに結論に踏み切った。
社団法人の形は棄てても、一橋会の名と実は存続させること。それが数ヶ月の辛酸を経て為し行た唯一のことであったが。その夜に限らず私達は先生や奥様の暖い配慮に甘え、杉本邸では深更まで語り合ったことも、今では想い出の一駒となり、
動態均衡理論を掲げて経済学のきびしい道を歩まれていた先生いまは亡し。徒に馬齢を重ね不肖を反省する思いは一入。
この間には中野駅前の明治屋で会合していた私達が一名の特高刑事の立合いを受ける破目となり、私は止むなく一橋会解散に係わる問題の議案を、丁度幸いに十一月三日記念祭(文化祭のことである)の直前であったのでその準備委員会である旨応答して、内容をスリ替えて議事を進行、事なきを得たというハプニングもあったのである。
私達の先輩が学園のささやかな自由の為に流した血潮の紅きを思うとき、私達はこの自由を如何に貴重と考えていたことでしょぅ。又ささやかなるが故にいとおしんだことでしょうか。
さあれ、昨今、他人の血汐で構わんとする平和と自由。かかる自由が横行しているような気がするのは私だけでしょうか。
三島由紀夫氏自殺。川端康成氏も。
マスコミの報道は枚挙にいとまなく、味けなき今日が過ぎ去って行く。
人間は何のために生きる?
鏡面の白霜に私は反問する。
あの小平の春月に、又国立の秋霜に自問した課題は、今日この頃私の心に蘇り、 そして泡沫のように消えて行く。
多分、往く年月の些煩事にかまけて、一番肝心なことを怠っていたのだと思われる。 (完)
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