五組  井出口 一夫


  あれは、よく晴れ渡った日曜の日の朝のことか。 遠く列をなして桑畑のうねが続き、青梅街道にやがては抜けて行く小道をはさんで両側に、黒つちの波打つ武蔵野特有の自然 が、五月の微風をなびかせて、半裸の私のはだを爽快な想いにかり立てて行く。たしかにそこには、当時の幼い私の情念を未知に向かってかき立てるに相応しい明澄な自然と田園風景がのびのびと開けていた。

 亭々とそそり立つ一本の松の木を仰ぐ広々した校庭を限って、新芽をふきはじめた頃の櫟林が連なる小道を抜け、玉川上水 のぬるんだ水が音もなく静かに流れ去るあの桜堤に続く林の中を、津田のメッチェンが、ふたり、みたり、夕暮れの散策を楽 しんでいる。ある時はお互にかたくなに沈黙を守り、ある時はいたけ高に、こちらから呼びかけながら、時には、静かにすれ違い、時に明るく楽しく言葉をかわし・・・、たしかにそこには自由で甘美な「青春」としるすに相応しい一つの幻夢があった のだ―と今でも私はあざやかにふとそう思う。夕やみが漸くあたりに暗い影をおとしはじめる時刻、貨車が一日に二回 しか通らないあの川越線の赤錆びたレールに佇み、遠くあかね色に染まった西空を仰いでは、「故郷の春」を口ずさみながら 遠い博多を偲ぶ、そのナイーブな感傷も、未知への決意と期待に胸ふくらませた私たち若い命が奏でた楽音の一コマだったのだ。

 やがて時が流れ、先輩たちの語り合い、語りかけてくるかたくなな学術書に無理解なまま胸を痛め、あるいは友人たちがあざやかにこなす都会の才覚に己れの能力格差を鋭く意識させられるまま、私は無性に、次から次に本を読みあさって行った。一年近くが過ぎ去った頃の拙い文章の断片が、今、目の前にある。「窓外春おぼろにして、小鳥の声聞こゆ。読書ということが今の俺にはたいした努めではなくなった。何だかぼんやり生活している。勉強もしにくい。騒ぎたくもない。本を読みたくもない。心が乱れているからだろう。ただこの呼吸している命を出来るだけ眺める時にのみ、生活ののぞみと喜びがあるのではないか。元気になる日を待ちつつ」 (原文のまま)何という愚かないいぐさだろうと今ははじらうようにそう思う。

 もうこの頃になるとチエの木の実をまともに消化しきれないまま、混沌とむしばまれかけた心象風景がいらだたしく芽ばえはじめ、倦怠と疲労がしきりに心をかきむしりかけている。それは、入学間もないころの素朴な感動が次第に色あせ、惰性が 巣くいはじめる頃の生の亀裂のあかしに外なるまい。たしか、私たち一年生は当時の寮の上級生たちから「啓蒙運動」と称された学的志向へのはげしいゆさぶりの中で明け暮れていた。

 わずか一−二年の違いなのに、上級生たちの話したり、書いたりする極めて密度の高い知性のかがやきが、未熟な頭脳に、 きらめくばかりの権威となってのしかかり、宗教や文芸・哲学や経済のこくのある論調やかたり草が、寮のあちこちから、直接・間接に耳に入る度毎に、異常なまでの距離感を苦々しく味あわされ、自らの無知と未知に苛ち、滅入りながら、己れの能力の限界状況をいつどうして脱皮出来るものか―その問いは、私の生理や心理の深層深く鋭くくい込み、痛々しいほどの攪乱作用を音高くかなで続けて行ったのだ。夜の十一時頃、今は北大の早川君と二人、時に相応じて、寮を抜け出し「ブリュー・ ベル」で、うどんやしるこをすすり、するめをかじりながら、人生や友情について語り合ったのもあの頃のこと。 「あなたよりくどきおとしてお前なり」とは、はげた頭にベレー帽のよく似合うあの店のおやじが、よくロにしたダンディー な川柳の一つ。

 今は昔、遠い時間の影にかすれてしまった回想ですが、しかし「われわれの小平」は、無垢な自然と無垢な命がいみじくも 交叉するわれわれの「青春の原点」に外ならない。

 腐りかかった季節はずれのリンゴのような味けなさを、はっきりと拒絶し、フレッシュで水々しく歯ぐきにしみ通るようなさわやかさに充ち溢れた「青春」という存在のありかをたずね、問いたゞし、時々刻々、過去化して行く時間を未来に向って否定的に克ちとって行く、その方向性の自己決定のきびしい当為だけが辛じてこうした私的回想に何ほどかの意味を匂わして くれるだろう。
                                  (1971・12・26)