二組   富安 直助
 
 


  ”三十年も経ってしまったのかなあ?”
  全く早いもので、気は青年の意気に燃えていても寄る年波には勝てず、からだのアチコチがいたむこのごろである。在京諸氏の活躍ぶりは便りを通じていつも羨しく感じながら卒業以来全くのご無沙汰をお詫びする心境である。いま往時を偲びなが らペンを振るこの小生の顔もみんな忘却の彼方ではないかと、一人想いをかっての小平の森にはせている。
 思えば良き時代の最后を小平国立で遊ばせてもらったものだ。慄林につつまれたあの環境は今いづこ?という変化をみせているであろう武蔵野、津田英学塾、国立音楽学校、エビキュール、多摩湖線のオンポロ電車、寮生活と思い出はつきない遠い過去になってしまった。この三十年の過去の姿は、昭和生れの人間が六〇バーセソトを越す今の世代に語ろうとしても理解しえないことだろう。われわれが明治の東京を想像できないと同様に。  
  離別以来日本の南端九州に暮らしてきたこの俺は幸運だったかも知れない。

  今日も煙り、ケムリ  涼を求めて海へ行けば色んなものが
  白いもの黒いもの目にみえないもの  うようよ、パイキンが一パイ

 手の施しようもない東京の空や海などの環境に比べるとこの博多はまたとないいところ・・・。適当に田舎であり、適当に都会的であり、難をいえば中央の政財界に遠く、刺戟に乏しいこと位だろう。幸運だったと考える理由はこうだ。俺は二度死にかけた。予科に入った昭和十一年の夏ドエライ交通事故に遭った。当今のことなら被害者意識−補償−で大変なことだったであろうが単なる大怪我ということで済んでしまった。夏休みが明け、小平寮には頭の線帯姿で諸兄たちを驚かせ、心配をかけ たものである。押し合いへし合いの混戦もあるバスケットを休業し、そのおかげで?隅田川の汚い川でオールを換りクラスチ ャンを漕いだことはこのいのち拾いに原因があったしだい。当今のムチウチなど糞喰えで何ともないが今の若い人とは構造がちがうのかなあ?
 さて学窓をでてご同慶に軍隊勤務となるが経理将校の予定がヒョンなことから本科自動車隊将校にまわされたことが二度目のいのち拾いといえるだろう。大陸へ南方へ同僚はつぎつぎ戦地派遣という最中にこの俺は吐血した。胃潰瘍だった。人手不足から軍務も休めず無理を重ねるうちひどくなり毎日洗面器二杯位吐血をしながら・・・であったが軍医は休みをくれず、やむなく九州大学で診断、直ちに入院切開手術をいい渡されたが、俺はこれを拒否した。幸い大分県のとある温泉が胃に妙薬ということをきゝ、ヤッとの思いで休暇をもらい温泉治療にでかけたおかげか?三週間足らずですっかり治ってしまった。全く 不思議という外ない。この胃病がなかったら戦地で仏様になっていたかも知れない。当時をふりかえり死の救い神であったとラッキーな人生に感謝しているしだいである。
 在京諸兄のうちで胃の病巣のある方はどうぞ九州の温泉におでかけください。大分県湯の平という片田舎で、阿蘇火山系の 温泉宿です。小先が身をもって体験したこと故にまちがいないことです。すぐ飛んでいらつしやい。
 常時九州に住んでいるので仲間の皆さん方と会えないのが残念だ。時折上京することもあるがジェット機という速いものが 出現したため東京に滞在することが許されず、トンボ帰りのことが多い。幸い恵まれたからだがまだどうにか使えるので元気そうにみえるが、神経痛だ筋肉痛だ眼精疲労だと医者に会う機会がだんだん多くなってきた昨今で、老人病の世界に足をふみこんできたようである。
  卒業三十年の記念文集という企画にマッチしないかも知れないがこんなつまらんことを書いてしまった。それくらい平々凡 々の毎日である。戦中戦后の三十年も、かくていのちをながらえつつひとり九州に住む小生の近況である。