七組 秋元 茂
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国立を離れて三十年、これ又世上提起されている停年間近の年令を迎えることとなった。これと云う精進、努力もなしに経過したが、矢張り三十年は永かった。 卒業直後入社した銀行の集合教育が終ると直ぐ召集(一七・四)、軍刀迄準備し乍ら内務班生活で変貌し、幹候を辞退、馬と一緒に暮しているうちに、盲腸、ジフチリヤ、腹膜炎、肺浸潤と、短現軍医の矢つぎ早の診断で召集解除(一八・三)、銀行勤めの息苦しさに生産会社へ転向(六・三)、軍医から一年経ったら又召集するからの言葉も忘れて結婚(一九・三) 新婚生活定かならぬ時期(一九・四)に再召集、軍隊手帖を見せると軍医あわてて即日帰郷、この辺迄は茶目気も交えての無責任な生活であった。 二十年長男出生後直ぐ終戦、労務関係の担当者として戦後の無統制な組合運動の矢表にたって頻繁な徹夜交渉、労組対策の
窓口が厚生省社会教育局であったのも好い思い出、従業員大巾退職の企業整備を終って経理業務に転進(二五・一〇)、その後は比較的平穏且正常なサラリーマン生活を続け得たが、最近の十年間は自分から飛び出した銀行屋さん相手に生活の糧を得ているのも何かの因縁か。子供も適令期を迎え、今後の羅針盤をどちらへ向けよう思案中の現在である。 十二月クラブの幹事諸兄のお骨折りには唯々頭が下がるのみ、生来の我儘と無精のため集りへの出席も稀になり勝ちで申訳
なく思っています。諸兄の益々の発展を祈りつつ。 |